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戦闘能力に長け、剽悍なスウェーデンバイキングの一派は東方に向かい、ノヴゴロドに居を構え、すぐに南下し現代のウクライナの首都キエフに入り、統一王朝を打ちたてました。ロシアに初の統一王朝を開いたリューリクは、諸説ありますが、状況証拠からするに、おそらくはバイキングの出であったと思われます。彼らの国づくりは紆余曲折あるも順調に進み、やがてスウェーデンバイキングの開いた国はロシアに受け継がれていきました。
一方、南方に向かったデンマークバイキングたちは、フランス北部を占領、ロロと呼ばれる彼らの首領がノルマンディー公国を建国しました。ノルマンディー公国はのちに征服王ウィリアムの時代、1066年南イングランドに攻め入り、ヘイスティングの戦いで勝利を収め、ウィリアムはイングランドの王となります。こうして誕生したイギリス初の統一王朝、イングランド王国は勢力を拡大、やがて連合王国を組織し、産業革命を成功させ、彼らの先祖の血のなせる業でしょうか、世界中に植民地を獲得します。ところが、力を蓄えた植民地のあるものは本国に叛旗を翻し、独立を果たしました。その一つがアメリカです。
つまり、極めて大雑把な見解を許していただければ、いわばこの時代本格的となった米ソ対立は、ともにそのおおもとの先祖をバイキングに持つ、バイキング国家同士の争いともいえます。世界を二分する勢力となった、共産主義国を代表する国家のスウェーデンバイキングの子孫のソ連と、資本主義国を代表する国家のデンマークバイキングの子孫のアメリカ、一体どちらが勝利を収めたのか、歴史の下した審判は、いかなるものだったのでしょうか。
〜 1. ポストスターリンー叛旗を翻す部下達 〜
1953年3月2日スターリンが意識を失うと、3月3日午前8時30分、ユーリー・レヴィタンのアナウンスでモスクワ放送がこの重大事件をラジオで流します。
ー「ソビエト連邦共産党中央委員会およびソ連閣僚会議はわれわれの党および国民を襲った、同士スターリンの重態という不幸を発表した。3月1日から3月2日にかけての夜、同士スターリンはモスクワの住居で脳出血に襲われ、脳中枢をおかされた。同士スターリンは意識不明になった。右腕および右足が麻痺した。言語中枢が冒された。心臓および呼吸器系統に重大な障害が生じた…」ー
3月4日から5日の夜にかけて会合が開かれ、スターリンが部下の分断を図った幹部会とビューローの二本立ての組織を廃止し、5日の午後8時から党中央委員会総会、閣僚会議、最高会議幹部会の合同会議が招集され、8時40分には後続人事が全て決定されました。その約1時間後(えらくタイミングがいいですが)の9時50分、スターリンは息を引き取ります。
3月6日午前6時、モスクワ放送は、ユーリー・レヴィタンの声で以下の放送を流しました。
−「すべての党員諸君、ソビエトのすべての勤労者諸君!レーニンの占有、その事業の天才的な後継者、ソ連共産党と人民の懸命な指導者にして教師、ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・スターリンは心臓の鼓動を止めた…」
「…わがソビエト人民は、この困難なときに当たって、一致団結、不屈の精神を堅持し、わが国における共産主義の確立にまい進して、ソ連共産党中央委員会と、ソ連政府の周りに終結しなければならない」−
新政権は3月7日、スターリンの遺骸をレーニン廟に納める決定を下し、廟の名前がレーニン・スターリン廟になります。また3月9日には葬儀委員長フルシチョフの下でスターリンの葬儀が行なわれ、マレンコフ、ベリヤ、モロトフが演説を行ないました。モロトフは、旧保守スターリン派を代弁するように、スターリンに対する悲しみを表しました。マレンコフは内政を、国内物資の生産に力を注ぎ、外政は新たな戦争を許さず、全ての国と平和に暮らす、という主張をしまし。ベリヤはスターリン憲法に示されたソ連政府は、憲法に示されたソ連人の権利を注意深く守るであろうと発言、ソ連の多民族的構成を強調しました。
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スターリンの葬儀に集まった群衆

スターリンの棺を担ぐ政府首脳
マレンコフ、ベリヤ、ミコヤンなど
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こうしてマレンコフ=ベリヤ連立政権が成立しました。マレンコフはロシア貴族の出で本人は中学校卒業とともに内戦に遭遇し、モスクワの高等技術学校を卒業した後、1925年党中央委員会で働き続けた人物です。ちなみにこのときのマレンコフの職は、1939年には政策立案を行なう書記局書記と人事を握る組織局局員、1946年から実際に政治を行なう政治局員で、さらに3月6日、スターリンの死去ですぐに首相(閣僚会議議長)、中央幹部会(のちの政治局)の筆頭幹部、書記局の筆頭書記に任命されました。つまり、キャリア的にはスターリンと全く同じ道をたどったわけで、この時点では誰が見てもスターリンの後継者だったわけです。
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ゲオルギー・マクシーミリアノヴィチ・マレンコフ
Маленков, Георгий Максимиланович
1902-1988
スターリンの後継者
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ベリヤは、旧ソ連のアブハジア自治共和国生まれの、金毛羊の毛皮の探索のイアーソンも立ち寄った、黒海沿岸のコルキス王国の遺民ミングレル(メグレリア)人、しかしグルジア人として行動したソ連人です。せっかくなので、ここでロシアのバルカンたるザカフカース、その中でも特にさまざまな民族が住み、旧ソ連の民族問題の凝縮のようだったグルジアのことについて少し書こうと思います。アブハジアはグルジアの最西端にあり、気候温暖で風光明媚、旧ソ連圏唯一の竹の産地です。旧ソ連時代は、西からアブハジア自治共和国、メグレリア(民族集団)、グルジア共和国という地理になっており、グルジアの北には南オセチア自治州があり、さらにそのすぐ上には北オセチア自治共和国、チェチェン・イングーシ自治共和国などがあります。
さて、アブハジアの歴史ですが、豊かな土地でしたので周辺民族の狙うところとなり、ビザンチン帝国に千年近く支配されました。しかし、アブハジアはだんだんと統一に向かい、八世紀にグルジア地域初の統一国家を形成しますが、まだアブハジア王はビザンチン皇帝の任命によるものでした。しかしアブアジア王レオン1世のときに自治を獲得、その息子レオン2世は国力を充実させ、当時アラブの支配下のグルジアと戦い、グルジア西部、東部の一部を併合してクタイシを首都におき、アブハジア王国を建設します。
アブハジア王国はその後2世紀ほど続きましたが、レオニード王家の血筋が途絶えたため、グルジア王であるバグラト家の皇太子をアブハジア王国に招き、975年かれはバグラト3世として即位します。こうしてグルジア王国もアブハジア王国も同じバクラト家が支配することとなりました。そしてグルジア王国はアラブ人勢力から現グルジアの首都トビリシを奪ってその国力はアブハジアをしのぎ、13世紀からはアブハジアとグルジアを両方ひっくるめてグルジアと呼ぶようになりました。この地域がロシアの勢力に入るのは19世紀初頭、ロシア帝国が度重なる露土戦争で、オスマン・トルコに圧勝していたロマノフ朝のアレクサンドル1世の時代です。
こういった民族の複雑が入り組みしかも歴史を持つ地域のかつ少数民族の出身者ですから、ベリヤは、ソ連の多民族的構成を強調して、ソ連人としての権利の強調で、少数民族の立場を守ろうとした発言を行ったのでしょう。
ベリヤは最初バクーの建設技術学校で学びました。しかし内戦の時期にチェー・カーに入り頭角をあらわし、1930年代から党活動に入りました。スターリンの晩年には彼の不興を買い、だいぶ危ない時期がありましたが、なんとか今まで生き残っていました。彼の職は国家保安省を吸収した内務省大臣であり、筆頭第一副首相で、党幹部会員の第二位でした。また、モスクワ市内に駐屯する武装部隊はベリヤ管轄下の国内軍(内務人民委員部の後身内務省管轄下の治安維持部隊)のジェルジンスキー自動車化歩兵師団のみですし、政治警察を使った要人警護をかねた要人の動静の監視も行える非常に強い立場にありました。
共産党内では党書記長のポストは置かれず、マレンコフ、ベリヤ、モロトフ、ヴォルシーロフ、フルシチョフ、ブルガーニン、カガノーヴィチ、ミコヤン、ペルヴーヒン、サブーロフらの10人の中央委員幹部会員による集団指導体制の傾向を強めます。また、政府では、ベリヤ、モロトフ、カガノーヴィチ、ブルガーニンらが第一副首相としてマレンコフの補佐に回ります。
派閥構成ですが、外相モロトフ、カガノヴィッチ、ヴォロシーロフはあくまでスターリンに忠実な保守勢力として残っておりました。そこへ伏兵フルシチョフ、ブルガーニン(フルシチョフがモスクワ党第一書記時代の、モスクワ市執行委員会議長であった人物で、いわば股肱の臣というべき人です。)がおり、商業・貿易相のミコヤンが誰ともつるまずぽつねんといる、という状態でした。
ここでフルシチョフのバックグラウンドについて少し書いてみたいと思います。フルシチョフは1894年4月17日、ウクライナとの国境に近い、クールクス県のカリノフカ村に生まれました。父は貧しい百姓で、冬になると炭鉱地帯ドンバスへ出稼ぎに行っていました。そこでフルシチョフ自身も小さい頃から家畜番として働かねばならなかったといいます。当時のロシア人の百姓の子と同じく、学校教育は7歳から12歳までの間、途切れ途切れに通年2年間受けたのみでした。
1908年、フルシチョフの一家はカリノフカ村を去ってウクライナのドンバス(現ドニエツク)へ移住します。当時14歳だったフルシチョフは炭鉱夫となりました。そして1918年、共産党に入党します。つまりは、レーニンやスターリンといった、あの共産党非合法時代を生き抜き、実際に革命を遂行した世代の次の世代に当たります。まだ24の若さですから、あのロシア革命および内戦、干渉戦の時代を、とりたてて頭角をあらわすこともなく過ごしました。
フルシチョフの出世のカギは、党内抗争の乗り切り方のうまさです。スターリンは1920年代後半から1930年代前半、トロッキー派、ジノヴィエフ=カーメネフ派、最後にブハーリン派を粛清し、政敵を抹殺して党内の意見統一に成功しますが、その実行責任者の一人がカガノーヴィチでした。1931年にモスクワ党本部で働き始めたフルシチョフはカガノーヴィチに見込まれ、彼の指揮下で働きます。
具体的には、カガノーヴィチはスターリン農政の責任者となり、1932年北カフカース地方のクバン地域に派遣されて苛烈な穀物調達を行い、抵抗する村をブラックリストに載せ、もっとも穀物調達の成績の悪い16の全村民を北方へ追放しましたが、フルシチョフはこのカガノーヴィチのお先棒を担いだのです。ちなみにこの北カフカース地方のスターブロボリ地方、クラスノグバルディスク地区、プリボーリノエ村には、当時2歳になっていたゴルバチョフがいました。
この手腕が認められ、カガノーヴィチの下で、1933年、モスクワ州党第二書記となり、1935年から1938年にかけてモスクワ州党第一書記となります。1938年1月にはウクライナ共和国党第一書記となり、ウクライナでの大粛清に辣腕を振いました。独ソ戦が始まると、フルシチョフは軍事委員として戦線で生活し、赤軍パルチザンの組織作りにかかわりました。
このとき後にスターリングラード派と呼ばれる赤軍の将校たちと親交をむすび、ひいてはこれがジューコフら軍の大物との関係を築くことにつながり、後の権力闘争で大きな力となります。1947年3月〜12月までウクライナ共和国首相を務めたのち、1949年12月までウクライナ共和国党第一書記に返り咲きます。そして1949年12月、スターリンによりモスクワ州党書第一記に呼び戻されました。このようにフルシチョフは若い頃はウクライナで育ち、ウクライナでの党歴が長く、ウクライナの歌を好み、ウクライナの民族衣装を着たりなど、ウクライナの影響を大きく受けた人物です。
そして3月14日、なぜかマレンコフは書記の職を辞して、それをフルシチョフに譲り、かわりに書記局の職務に専念するためとの理由で、フルシチョフはモスクワ市党第一書記を辞任します。つまりマレンコフは事実上の書記長だったのに、書記を辞めてしまったわけですが、この結果は重大でした。共産党の最高指導機関である政治局(この当時は中央委員幹部会)ですが、政治局員はいても政治局局長なる職は存在しないため、党の政策立案機関、日常業務を行なう書記局の書記長が政治局のまとめ役をかねます。
つまりは、書記長が政治を牛耳る体制のソ連では、これはみすみすみずからの権力を相手に与えてしまったということになります。さらには書記局には党幹部の選抜と配置の権限がありますので、これをつかってフルシチョフは密かに自分の息のかかった人物を党の要所要所に配置して、自らの権力を固めていったのです。あるいはこの当時の書記局の書記は、フルシチョフ、スースロフ、ポスペーロフ、シャターリン、イヴナチエフでしたが、マレンコフ派のスースロフがフルシチョフを押さえてくれると思ったのかもしれません。
マレンコフは最高会議で孤立気味のミコヤンを副首相にし、指導部の一枚岩的性格、集団指導体制をアピールします。さらに具体的施策として、3月27日一般刑事犯で刑期5年以下の者は釈放という大赦令を発し、4月1日には食料品(パンと肉は10%、ジャガイモと野菜は50%)、家庭用品の価格引下げ(石鹸と冷蔵庫は20%)を発表します。大赦令のほうは結果として犯罪者を世に解き放つことになり、ベリヤ率いる内務省軍の出動と相成りました。
ところが、ベリヤはクレムリン医師団事件の取り消しを内務省発表で独自に行ないました。逮捕された医師の供述は拷問によって得られたものだと発表し、医師たちは全員釈放、通報者の女医のレーニン勲章(有髭動物ヒゲムシを発見し、20世紀に入った段階で、生物学で新たな門を設立するという大発見でイワノフ氏などが受賞している大変名誉ある賞です。)受賞は取り消されました。事件発生当時の国家保安省大臣だったイナグチエフは党書記をやめさせられ、この事件の直接の担当者だったリューミンは逮捕されました。
これは国民の間でテロルが終結するとの安堵からによる好感を持って迎えられます。テロルの終結すなわちスターリンに対する批判は人気上昇につながることがこれではっきり証明され、うすうすこれが人気取りにつながることがわかっていても、スターリンの遺志に正面切って反対することが一体どういうことを引き起こすのかわからず様子見をしていた政治家達も、ベリヤの行動でスターリンに対する批判が一体どういう効果を生むかがわかりました。
しかし、これに味を占めたベリヤは、抜け駆けを企てます。自らがソ連邦の少数民族ミングレリア人の出であったことから、ソ連の非ロシア民族の代弁者たらんとしたのでしょう。ベリヤはミングレリア事件の取り消しを行い、4月14日のグルジア党中央委員会総会で、ミングレリア事件に関係した党第一書記ムゲラッゼを解任し、中央委員会ビューローの人事入れ替えを行ないます。さらにグルジア首相を更迭し、友人のバクラッゼを首相に占めます。さらにベリヤ派のデカゾーノフがグルジアの内相に送り込まれました。
次にベリヤは自派のメシクをウクライナに送り、西ウクライナの状況を視察します。それに基づきベリヤは意見書を党幹部会に提出し、5月26日の中央委員会総会で西ウクライナの民族政策の改善とウクライナ第一書記メリコフの解任、キリエンコの昇格を行ないます。ベリヤは続けてリトアニア、ベラルーシについても意見書を提出し、ロシア化政策に反対し、民族幹部を指導的ポストにつけて、民族語を使用することを主張しました。そこでベリヤのイニシアティヴのもと、ベラルーシでは内相がベラルーシ人に交代します。
また、ベリヤは外政でも積極的な動きを見せます。東ドイツの指導部は社会主義建設急進路線を取り、国内からの反発を受けており、東ドイツからの西ドイツへの亡命が進んでいました。そこで1948年、スターリンは東西ドイツの交通規制を強化、遮断し、いわゆるベルリン封鎖を行います(1949年に解除しますが)。しかし亡命者の数は増え続け、この問題を、ベリヤは東ドイツを放棄し、西側と協調して東西ドイツ統一を進め、それによって見返りを得るという、後年のゴルバチョフのようなことを考えていました。
このベリヤの独走に対し、指導部は危機感を抱きました。特にフルシチョフはラトヴィア問題では同調したものの、西ウクライナ問題ではベリヤと対立し、マレンコフを説得してベリヤを排除することを賛成させます。1953年6月16日、東ベルリンのスターリン通りで、「ノルマと物価を下げろ」というプラカードを掲げて起こったデモが発生、ドイツの社会主義統一党はノルマ低減を約束しますが、勢いは止まらず、翌日にかけてハレ、ライプツィヒなど他の都市にもデモが拡大、党本部焼き討ちなどがおこるなど暴徒化、東ドイツの警察では手におえず、駐留ソ連軍が全面的に介入し、暴動を鎮圧しました。しかし、チェコスロヴァキアのプルゼン、プラハでも小規模な暴動が発生します。
このドイツでの暴動はベリヤの東ドイツへの融和的な行動が原因であるとし、フルシチョフは国防相ジューコフ元帥を引き入れて軍の力でベリヤを逮捕します。6月26日、党幹部会の席でフルシチョフによりベリヤが批判され、ジューコフやモスクワ防空管区司令官モスカレンコなどが党幹部会に現れ、彼の臨席のもと、ベリヤが逮捕されました。
フルシチョフによると、ベリヤ逮捕は以下の様に行われました。まずは1953年6月ごろ、ベリヤと、当時旅行中のカガノーヴィチを除く党幹部会員全員が集まり、ベリヤの逮捕、解任を決めました。中央委員会幹部会のメンバーも加えたベリヤ批判を行う閣僚会議幹部会開催の手はずがひそかに整えられ、その当日、マレンコフが開会を宣言するとすぐにフルシチョフがマレンコフに発言を求め、ベリヤの問題を検討することを提案しました。
そのときベリヤはフルシチョフの右に座っていましたが、飛び上がってフルシチョフの手をつかみ、フルシチョフを驚きの目でじっと見つめて「どうしたんだ、ニキータ?君はいったい何を言っているんだ?」と言ったということです。フルシチョフはこれまでのベリヤの活動を批判し、ベリヤを副首相、内務省、および彼の保持するすべての公職からの解任を提案しました。
そしてフルシチョフは隣の部屋で待機していた将軍たちに合図を送る秘密のボタンを押し、ジューコフ、モスカレンコらが入ってきました。気が動転していたらしいマレンコフはこの動議を表決にかけることもせず、ジューコフに「ソ連閣僚会議議長として、私は、告発に対する取調べを行うためにベリヤを拘禁することを求める」と消え入るような声で発言、ジューコフはベリヤに「手を上げろ(Руки вверх.)と命令し、モスカレンコらはベリヤの動きに備えて拳銃ケースを開けました。
ベリヤは一旦閣僚会議の建物のマレンコフの執務室の隣に武装警備兵の監視下に置かれます。しばらく後、モスカレンコがベリヤの身柄を拘束することが決定され、ベリヤはモスクワ防空管区の掩蔽壕に移されました。このとき、サドーヴォエとゲルツェン通りの交差する角にあるベリヤ邸は軍の戦車隊に包囲されていました。
7月初旬に開かれた中央委員会総会ではベリヤの全公職剥奪と告発が検討され、承認されました。マレンコフは、ベリヤが国家保安省を党と政府の上に置こうとしたと批判し、フルシチョフはベリヤが1919年にアゼルバイジャンのイスラム民族主義派ムサヴァティストの諜報機関で働いていたことがあるという彼の過去を持ち出しました。結局この総会の結論はプラヴダに発表され、ベリヤは本来党とソヴィエトの敵であったが、その姿を隠して指導部に忍び込んでいたのが暴露され、それによって追放されたという内容が掲載されました。12月になってベリヤを含む6人の裁判が行なわれ、即日死刑が執行されたという報道がのちになされました。
さて、ベリヤを粛清したマレンコフ集団指導体制ですが、外政的には、7月27日には朝鮮戦争の休戦協定を喜び、日本との関係改善を呼びかけ、アメリカに対しては米ソに衝突が起こる客観的根拠はないと主張し、平和共存を主張しました。さらに経済的には、国民の生活水準向上のため、スターリン時代の極端な重工業偏重をやめ、軽工業の発達を図ることを宣言します。農業については、成果は著しい、とするも、生産の増産のためコルホーズ個人副業経営に対する課税を半分にし、過去の滞納は棒引きとすることを宣言します。これはかなりまともな政策と思われます。
しかし平和を呼びかける一方、アメリカの1952年11月、太平洋のエニウェトクで行なった原爆よりも更に強力な水爆実験の成功の後、1953年8月、マレンコフはソ連最高会議で「アメリカが水爆の製造について独占者ではない、ということを報告する必要がある。」と発表しました。ソ連も水爆の開発に成功したのです。
さらにソ連は1953年、当時セルゲイ・パーヴロヴィチ・コロリョフらのチームが開発したРシリーズロケットのР-11(NATOコード名スカッドミサイル)を搭載した弾道ミサイル潜水艦を開発、竣工させます。このプロイェークト611はミサイル発射時には海上に浮上しなければなりませんでしたが、ともかくこれにより、核弾頭ミサイルの海上からの発射が技術的に可能となり、さらには地上からの発射と異なり発射および発射の予兆の探知がきわめて困難となります。
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Проект 611
世界初の弾道ミサイル潜水艦

白海でのミサイル発射実験
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また、これは1958年のことになりますが、ソ連は原子力潜水艦の開発に成功、プロィエークト627キートを竣工させます。核エネルギーを使用するため、メンテナンスに非常な費用がかかるものの、最長で10年近く燃料棒の交換が不要で電力もふんだんに使用できる原子力潜水艦を手に入れたソ連海軍はその行動範囲を一気に広げ、ピョートル大帝時代にバルト海・黒海に進出しましたが、いよいよその行動範囲を世界に広げ始めたのです。ソ連海軍は北洋艦隊・黒海艦隊・バルチック艦隊・太平洋艦隊で構成されていましたが、特に1970年代からキューバ危機の反省から、ゴルシコフ提督の指揮の下、海軍力、特に太平洋艦隊の増強が進み、インド洋への進出を果たすなど、その動きが活発化します。
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Проект 627 "Кит"
ソ連初の原子力潜水艦
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さらに1954年のメーデーでは、ジェット長距離爆撃機м-4(NATOコードネーム名バイソン)を赤の広場で披露します。このм-4の改良型のм‐4‐2にいたっては空中給油が可能でアメリカ本土を爆撃してソ連に帰還することが可能であり、ソ連が戦略爆撃機による原水爆の目的地への効果的な輸送手段を手に入れたことをアメリカに示したのです。
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м-4
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さて、フルシチョフの方に話を戻しますと、正式に第一書記(書記長の名称が変更され、第一書記に改められました。書記長という名称は人の上にたつようなニュアンスを与えるとの理由で名称変更となったのです。)となった9月の中央委員会総会で、農業問題に関して報告し、牝牛と馬の頭数は革命前の水準にも達していないという事実を報告しました。これは、農業の集団化の過程で、家畜が共有になるのを嫌がった農民が家畜を殺して食べてしまったりしたなどの理由で家畜の数が激減していたのですが、それをフルシチョフは突いたのです。
さらに、フルシチョフは1954年1月、穀物生産の拡大のため、党幹部会でカザフスタンの処女地1300万ヘクタールの開墾を提案します。これは受け入れられ、コルホーズと、新たに設置されたソフホーズが行なうことになり、この事業には若い熱気をもてあましていたコムソモール員が動員され、当時カザフ第二書記であり、すぐにカザフ第一書記に昇格したブレジネフが指揮を取りました。
ブレジネフがカザフに第二書記、第一書記に着任していた際、カザフスタン共和国首相として処女地開拓に携わり、ブレジネフと苦楽をともにしたのが、カザフ人勤務家庭に生まれたクナーエフです。彼は1960年カザフ第一書記となりますが、1962年の不作時に農政の責任を取らされフルシチョフにカザフ首相に戻されます。が、ブレジネフが全権を掌握した際にすぐにカザフ第一書記に返り咲き、ブレジネフ人脈のカザフ派重鎮として力を振るい、第24回党大会では政治局員候補、第25回党大会では政治局員に任命されます。しかし、ブレジネフ時代が終わり、ゴルバチョフ時代になると、ブレジネフ人脈カザフ派重鎮としてゴルバチョフに1986年カザフ第一書記の座を追われました(その直後、この措置に反対してカザフで暴動が起こりました)
自然を無視したこの開発は当初はすばらしい成功を収めました。1956年に開墾面積は3590万ヘクタールに達し、さらにこの年は豊作で、穀物の生産高が6326万トンで、これはこの年の生産高の50%にあたり、ウクライナを抜きさる大穀倉地帯がカザフスタンに誕生したこととなります。これは彼の大きな政治的成功とされ、フルシチョフの権力増大に大いに貢献します。
さらに1954年はフメリニツキーがロシアの宗主権を認めたペレヤスラフ協定締結300周年に当たっておりました。この条約は、エカテリーナ2世による1783年の登録コサック制の廃止とコサックのロシア軍併合による、最終的なヘトマン国家の消滅の根拠となったものですから、いろいろと議論の多いものでしたが、対ウクライナ懐柔政策の一環として、この式典でフルシチョフは「ウクライナに対するロシア人民の偉大な兄弟愛と信頼のさらなる証し」として、クリミアをウクライナ共和国に移管したのでした。
もっとも、クリミアはロシア人が70%を占め、黒海に進出する戦略要地として極めて重要な地域として、ロシア語以外の使用を禁じるなど、ロシア化政策が徹底して行なわれてきた、このクリミアをウクライナに帰属させることで、ウクライナにおけるロシアの比率を高める目的があったともいわれます。たしかに、クリミア出身のウクライナ人に一度お会いした事があるのですが、本人はロシア語しかはなせず、しかもウクライナ人なのにもかかわらず、「ウクライナ人もロシア人も殆ど変わらない」などと、聞いているこちらが腰を抜かしそうなことをおっしゃっていました。
ともかく、当時はウクライナが独立することなど予想だにしなかったでしょうから、こうしてクリミアはすんなりとウクライナに移管されました。その結果、ロシアは、国内随一のすばらしい保養地ヤルタを、ロシア軍の歴史とともにあったセヴァストーポリを失ってしまったのです。現在でも、フルシチョフのこの決定を激しく怒り、ののしるロシア人もいます。(何でフルシチョフはクリミアをウクライナに渡したんですかね、とあるロシア人に質問したところ、Ведь
он дурак!(だって彼は馬鹿だから!)と間髪入れず答えられたことがあります。)
ちょっと話がずれますが、とにかく大概のロシア人は、領土に関して極めて執着が強いというのが私の印象です。どのように強いのかというと、「血を流して取った領土をなぜ負けたわけでもないのに返還せねばならないのだ」という点にあります。個人的には、戦争のある国と(すくなくともこれまでは)ない国の差なのかな、と感じます。たしかに、現在(2005年)のロシアには徴兵制があり、国民には兵役の義務があります。したがって、チェチェン帰還兵の問題なども耳にします。たとえば、夫が兵役でチェチェンに送られ、ザカフカースの厳しい気候にすっかりやられて半病人のようになって帰国し、失職して一気に家庭が苦しくなった、などの話です。このような犠牲を考えると、どうしても、領土に関しては、簡単には引けないという気になるのでしょうか。
さらに1954年3月フルシチョフは政治警察を国家保安委員会(КГБ、いわいるKGBです)に昇格させ、そのトップにウクライナ時代の部下セローフを据えました。
このКГБについてわかっていたことを書きますと、国内活動の主なものは、
1.ソ連邦内における破壊活動の防止、鎮圧
デモや地下出版などの取り締まり。
2.ソ連内外の防諜
ソ連に入国した外国人の監視およびソ連を出国したソ連人の監視。
3.ソ連国境の保全
ソ連軍とは別に、КГБの管轄下にある総勢25万〜35万といわれる国境警備軍をもち、地上部隊と海上部隊で9つの国境警備管区を警備する(領空の警備は防空軍が担当)。
4.ソ連軍の監視
КГБの軍管理局から派遣された、КГБ将校によるソ連軍の監視。
5.ソ連国家機関の監視
外国貿易省、インツーリスト、全ソ商業会議所、研究・教育機関などの監視。
6.党・政府要人の警護、重要文章の警備
書記長の警護や、クレムリン、党中央委員会ビル構内の警備など
国外活動としては
1.海外での防諜、謀略工作
敵対国家の政治・経済・文
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