ソビエト時代(8)

〜〜 アメリカとの対決とウクライナ派の台頭 〜〜



ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフ
Хрущёв, Никита Сергеевич
1894-1971

 共産党第一書記(первый секретарь)、首相

アメリカとの全面対決に乗り出す。

 


Российская
История

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История


 



 〜8.宇宙開発レース(2)ーロケット・プロペラ・ジェット〜

 近現代史に突入すると、18世紀頃、ニュートンやラボアジエらにより土台の据えられた、近代科学を産業に応用した工業製品は世界を変えんばかりの勢いをもちます。産業革命とはよく名づけたものです。したがって、現代においては、一国の国力を左右する科学技術の話に踏み込むのも、あながち無茶ではないと思います。

 せっかくですので、ここで、ジェット機とロケット、プロペラ機について述べてみようと思います。ただでさえ目立たない航空機・ロケットの設計に比べて、航空・ロケットエンジン開発は、さらに目だないですが、航空機、ロケットの性能を決定するのははっきり言ってエンジンです。どんなにすばらしく設計された航空機でも、エンジンがなければ飛びませんし、少々設計が荒くても、エンジンが強力であればそれこそ馬力で押し切れるのです。グラマンF6Fヘルキャットと零式艦上戦闘機の栄光と没落はまさにこのエンジンの馬力の差です。極言すれば、航空機、ロケットの設計は、エンジンの性能を如何に十全に発揮するかの試みである、といっても過言ではありません。ツァンダー、グルーシュコは偉かったと思いますよ。

 ここでだいぶ話はわき道にそれますが、零式艦上戦闘機、いわいるゼロ戦ですが、言われるほどの名戦闘機だったのでしょうか…。確かに兵器は敵を倒すものであり、攻撃力に優れていなければなりませんが、それと同じくらいその兵器を使用する搭乗員を守れなければなりません。物の本によると「防弾性能は当初から軍の性能要求項目になかった」ということですが、言い換えれば「厳しい軍の性能要求の盲点をついて、運動性・航続距離には優れるが、搭乗員の生命についてほとんど考慮しない戦闘機を作った」ということにはならないでしょうか…。無防備による軽量化で速度や運動性を上げて被弾率を下げることをねらったという話ですが、結局実戦ではそうならなかったわけですから、これは意味のない理屈です。

 いくら戦局や要求が厳しかったとはいえ、無理が通って道理が引っ込んだ戦闘機のような気がしてなりません(対米戦なんて無茶な戦争を始めるから、無茶な戦争を遂行するための無茶な兵器が登場せざるを得なくなったのでしょう)。ゼロ戦に限らず、とにかく人命軽視というのは旧日本軍の特徴ですが、ある本を読んでいて、グラマン社の元社員の口を借りて語らせていた言葉「防弾性能を無視できれば我々だってもっといい戦闘機を作れた、でもそこまでしようと思わなかった」、これがその本の作者の言いたいことの一つなのでしょう。できないものはできないと言い切るのも勇気であり、誠実な技術者のあるべき姿だと思います。ですから、個人的には、(設計要求の厳しさが本当の理由なら)競争試作から辞退した中島戦闘機の技術者こそ、真に誠実な技術者のように僕には思えます。

 結局のところ、欧米と比べ当時の日本の技術が余りにも貧弱だったのです。なぜ日本の航空技術が世界の水準に追いついていたのかといえば、それは試験機購入との目的で欧米から輸入した飛行機を分解してひたすら技術をパクっていたからです。その証拠にいざ戦争が始まって技術封鎖をくらうと日本自らの手で欧米を抜く技術水準の兵器を開発することができずに結局資源の差ばかりでなく技術力の差でも負けております

 ただ、戦前の日本の技術でもすばらしいものはありました、それは電波技術です。イギリス軍が八木アンテナ(東北帝国大学の八木秀次博士が発明)を使用していたごとく、レーダー受信機の技術において日本は高いものを持っていたのですが、受信があるからには送信もなければなりません。実はレーダーに使われるマイクロ波発振技術において、1927年に当時世界最高性能のマグネトロンを開発したのが八木博士の弟子、岡部 金治郎博士です。

 ですから、この期を逃さず電探の研究に日本が資金・人材を投入しておけば、日本も実戦で十分役に立つレーダーの開発が間に合い、あれほど米軍のレーダーに一方的に悩まされることはなかったのではないか、などと思ったりします。なぜやらなかったのか、ドイツの技術に凝り固まった技術将校がドイツが注目しなかったレーダーに目を向けなかったため、自分たちも関心を払わず、結局旧日本軍全体がレーダー技術を軽視したのか。その辺は調べてみたいのですが、なんともわかりません。

 ただし、たとえレーダーを開発できたにしても、その効果的な運用、たとえばレーダー射撃などを行おうとした場合高射砲とレーダーを連動させ、制御するアナログコンピューター(ダイオードやトランジスタなどの素子が例の真空管などででできている当時のコンピューターです)が必要となります。しかし、そのためには増幅回路が必要となり、信頼性の高い真空管(正確な動作をしてもらうためにはどうしても高真空技術が必要となります)などが必要となりますが、VT真空管にあれほど悩まされた当時の日本の技術のこと、製造はおろか量産が可能な部品だったのかと考えると甚だ疑問に思えます。

 第一次世界大戦以降 は科学技術の進捗状況が戦局に決定的な影響を与えた時代であり、たとえ日本にいくら資源・石油があったとしても、結局技術力の差で敗れ去っていた可能性が高いと思います。

 ターボプロップではない、ピストン・エンジンで動いていたこの当時のプロペラ機は、原理的には自動車に積んであるガソリンエンジンと全く同じで、要するに、空気(の中に含まれる酸化剤の酸素)をとりこみ、燃焼室で燃料(ガソリンなりなんなりの還元剤)と適切な比率で気化混合し、点火し、そのときの爆発による高熱で気体を膨張させ、この気体の膨張をシリンダーで受け、ピストンを使って回転運動に変えるしくみです。自動車のエンジンとプロペラ機のエンジンの違いは、この回転運動を車軸に伝えて車輪を回転させるか、プロペラを回転させるかの違いです。といいますか、ロケット、ジェット、プロペラも、化学反応により生じた排気をこれまた化学反応で生じた熱で膨張させ、仕事に変える熱機関であるという点ではまったく同じです。

 ちなみに、エンジンは高温になります。高温になると、程度の差こそあれ、化学反応は促進されますので、燃焼という化学反応においては、高温であればあるほどいいのですが、放っておくとエンジンが焼きついてしまいます。そこで、冷却が必要なのですが、第二次大戦前、日本でもエンジンの冷却を考慮した航空機エンジンが開発されました。その方法には空冷式と水冷式があります。

 空冷式エンジンとは、飛行機は高速で飛んでいますから、せっかくあんなにすごい流れの空気があるのなら、それをエンジンに当てて冷やそうというものです。長所は、流体力学的な問題はおいておくにしても、機構がかんたんですむことです。短所は、空気の熱容量は液体に比べて極めて小さく、水冷式にくらべて冷却効果が低いという点です。水冷式エンジンとは、エンジンにパイプを張り巡らせ、その中に液体をフローさせてエンジンを冷やす方法です。長所は空気よりも冷却効果がはるかに高いこと、短所は、液体をフローさせるには高度な技術が必要であり、さらにフロー用のポンプなどの機構をつむと複雑になり、かつ航空機には致命的な重量増加をもたらします。






九八式八○○馬力発動機
昭和14年2月製造、川崎航空機株式会社
水冷式航空エンジン、12気筒




後より




スペック


著作権はありません。




 ちなみにドイツのBMWが開発したこの水冷式エンジンですが、第二次大戦中、日本にも技術供与でもちこまれ、開発が進められましたが、良好な不凍液の不足で、高空では気温が下がり不凍液が凍結してエンジントラブルが発生するなどしていいエンジンができなかったと聞きます。現在では、一斗缶1万円強で手に入るエチレングリコール、プロピレングリコールで手間取るとは、今なら考えられない話です。

 しかし、このプロペラエンジン方式だと、もちろん極限に押さえるべく努力をしているのですが、まずシリンダーとピストンの間での摩擦があり、その他、ピストンで前後運動を回転運動に返還する機構内での摩擦がある、プロペラ軸と軸受けの摩擦がある、などなど、摩擦熱となって無駄に散逸するエネルギーが多そうです。機体にかかる空気抵抗は飛行速度の二乗に比例しますので、ともかく、飛行速度を上げるためには、空気の薄いところを飛行せねばならず、プロペラの場合、空気が薄いと空気をかいて進むことができません。さらに、プロペラ機で速度が上がっていくと、プロペラの起こす空気の渦に阻まれて、とてもではないですが音速の壁を越えることはできません。

 そこで、音速の壁を超えるにあたり、爆発によって生まれてた熱による空気の膨張を、回転運動に変換するのではなく、熱膨張する排気を直接蹴って進む方式のエンジン、ジェット・エンジン及びロケット・エンジンの開発が行なわれたのです。これは余計な損失がない分、同じ燃焼室の爆発でもパワーがでそうです。ちなみに自分で燃料と酸化剤を抱えて飛ぶのがロケットで、酸化剤を周りの空気から吸い込んで飛ぶのがジェットです。

 ロケットの長所は、なにせ自分で酸化剤をもっていますから、真空中でも飛べることです。さらに、排気を直接蹴って運動量に変換するので、三つのエンジン中、最もスピードがでます。しかし、機体にかかる抵抗は、飛行速度の二乗に比例するので、これだけのスピードですと、やはり空気が極めて薄いかあるいは存在しないところ、つまり宇宙空間での飛行が最適なのです。とにかく、第二脱出速度を超えないと地球から離れられないわけですから、真空で飛行可能でとにかくスピードの出るロケットは、宇宙空間での使用が最適です。

 ジェットの長所は、空気が薄くプロペラ機の飛べない高高度を飛行することにより、プロペラ機よりスピードがでること、音速を越えられること、ロケットほどのスピードは出しませんが、ロケットのように、凄まじいスピードを出す代わりに、あっという間に燃料切れになってしまということがないことです。ジェット飛行機は、ロケットのようにすべて自分の燃料で発生させた推力で飛ぶわけではなく、翼で風を受けて揚力を発生させる、つまりは風に乗って空をとぶため、ロケットのようにあっというまに燃料を消費し燃焼がストップしてしまうことがありません。

 ですから、ここで私がいいたいのは、エンジンにはそれぞれ最適な使用条件があるということです。空気を圧縮して飛ぶため大気が薄く酸素も薄い高高度で気候が可能であり、なおかつ音速を超えるスピードが出るため、空気の薄い高高度の方がかえって機体にかかる空気抵抗が小さくて有利なジェット機は高高度での使用が最適であり、速度の遅いプロペラ機はジェット機よりも高度の低い5000メートルあたりでの使用がもっとも効率がよく、酸素がなくても飛べ、なおかつ最もスピードが出るため万一空気があればとてつもない空気抵抗を受けること必定のロケットは、やっぱり真空中での使用が一番なのです。

 逆に言えば、高高度でプロペラ機の使用を試みるのは無理がありますし、低空をジェット機で飛行するのもきわめて効率が悪く、ロケットを空気中で飛ばすのもとんでもなく無駄です。新式だからすごいとか、そのような問題ではなく、使用条件・目的によって適・不適がある、というのが正解だと思います。

 話を戻しますと、しかし、ロケット・ジェットエンジン方式だと、これまではまがりなりにも燃焼室の中という閉鎖系の中で行なっていた温度、燃焼のコントロールを、事実上全開の燃焼室で行なわねばなりません、騒音もうるさそうです。さらに、まわりの空気から酸化剤である酸素を取り込むジェット・エンジンだと、空気が薄い高高度では、空気を圧縮して燃焼室に送り込み、酸素分圧を上げ、大量の空気を吐き出すことで推力を得る必要があります。この空気を圧縮して燃焼室に送り込む機構を過給器といいます。

 ちなみにこの過給器は、第二次世界大戦中のプロペラエンジン機戦闘機にも取り付けられ、まだ相当なエネルギーを残していた当時のプロペラエンジンの排気中にタービンブレードを設置し、そのブレードに当たる排気により回転運動を取り出し(要するに風車の役目をさせるわけです、いわいるガスタービンです)て、タービンブレードを設置した軸のもう一方の先にさらにブレードをとりつけ、そのブレードでむりやり空気を圧縮させ、圧縮した空気を燃焼室に取り込むことで動力をさらに20%近く増大し、馬力を上げるとともに高高度での性能を飛躍的に増大させることが可能というわけで、この過給器の研究が各国でさかんになされておりました。

 しかし、エンジンの排気はまだ800℃前後の温度を保っており、その中で毎分一万回以上の回転を行なうわけですから、ブレードにはとんでもない遠心力がかかります。しかも、高温になると、金属はもろくなってしまいますから、クリープ現象といって、ブレードが破損してしまう現象が起こります。この過酷な条件に堪えるためには相当な硬度のブレードが必要でして、このような材料化学の面からの制約により強靭なブレードの開発にてこずり、結果としてジェットエンジンの開発が遅れてしまったのです。

 タービンブレードだけでなく、過給器によってただでさえ高温高圧で燃料の爆発の起こっているエンジン内に、高圧の空気を送りこむわけですから、エンジンの構造が極めて頑丈である必要があります。しかし、ごつくて頑丈なエンジンを作るとそれは大概重量増加を招きますので、エンジンの性能が落ちてしまいます。したがって、なるべく贅肉をそぎ落としたエンジンを作ることになりますが、それだとエンジンの強度が低下し、爆発事故につながってしまいます。このおとしどころを見つけるのは、特に新型エンジンだと、全部自分たちで手探りでやっていかねばなりませんから、きわめて大変な作業です。じっさい、B29なども、試験飛行中にエンジンが火を噴き、機体が制御を失って民間のビルに突っ込んでファイヤー・ボールと化した苦難の開発の道のりがあります

 日本でも高高度での空戦性能を上げるべく、過給器用のブレード材料の研究が進められましたが、とにかく硬度をあげるとのことで、クロム70%という贅沢なクロム鋼(もはや鉄にクロムがとけているというより、クロムに鉄が混ざっているといったほうが適切ですが)なども試験されましたが、所定の性能を得るには到りませんでした。

 ところが爆撃機用の大型ブレードの材料開発に成功し、高高度での大型爆撃機の性能を飛躍的に向上させたのがアメリカです。B17、B29にはこのブレードが使用されておりました。サイパン島を基地にして日本各地に飛来し、日本を焦土と化したこのB29のブレードの材料ですが、コバルト30%、クロム30%、ニッケル30%、残りは鉄、ニオブ、アルミニウム、というもので、もはや「鋼」とはいえず、まるで金塊のように高価なブレードでした。日本には資源にできるほどコバルトは出ませんし、ニッケル鉱山もありません。これは、資源小国にとってはとても製造不可能な部品です。日本では、このブレードの構成成分がわからず、結局開発できなかった、という話になっているでしょうが、どうでしょうか?そりゃEDXだのXPSだのそういった便利な分析機器は昔ですからなかったでしょう。でも、技術者ですから、不時着したB29を分解し、ブレードの分析を行えば、製造過程におけるノウハウまではわからないにしろ、成分ぐらいはわかったんじゃないでしょうか?しかし、それがわかったところで資源不足はどうにもならない問題ではありますが。

 話がそれましたが、というわけで、ジェットエンジンが実用化されたのは1920年代半ば、考案者は流体力学専攻のドイツ人、パウル・シュミットです。先に述べた材料科学上の制約から、彼が考案したのは、ジェットエンジンはジェットエンジンでも、パルス・ジェットと呼ばれるもので、パルスとは「脈」のことですから、要するに間欠的にエンジンが点火・爆発を繰り返すタイプのものです。

 このパルス・ジェットは全体が筒になっており、パルス・ジェットが点火され、燃料燃焼が起こると、筒の前部に取り付けられている弁が、燃料の圧力で、ドアが風圧でバタンと閉じるように、閉じます。すると、排気は全て後部の筒から噴出することになり、飛行物体を前に押し出します。筒の内圧が下がると、今度は前方からの風で弁が開き、空気が入ります。これを一秒間に10回以上、脈打つ(パルス)するように繰り返して飛行を行ないます。この効率の悪いパルス・ジェットの最大の長所はブレードを開発せずともすむことです。これが実用化され、兵器として登場したのが、巡航ミサイルの遠い先祖、第二次世界大戦中のドイツ軍のV-1です。







巡航ミサイルの祖先V-1号(Fi103)




 このような見地から見ると、ドイツが開発した世界初のロケット戦闘機メッサーシュミット163などは極めて奇異な印象を受けます。空気中ならわざわざロケットエンジンにしなくてもジェットエンジンにすればいいわけです。しかもロケット燃料燃焼時間は短く、滞空時間は6分30秒、いくら局地戦闘機とはいえ、この時間で一体何ができるのか軍事の素人の僕でも考えてしまいます。ロケットのスピードが買われて設計されたのでしょうが、理想を追求しすぎて現実を忘れる、これが当時のドイツ人の特徴でしょう。

 ついでにメッサーシュミットの推進剤と酸化剤ですが、推進剤に、ヒドラジン、メタノール、水の混合物に、触媒として銅シアン化カリウムが点火されており、酸化剤は80%過酸化水素です。ヒドラジンは毒性があり、メタノールも摂取すると失明したり重篤な肝障害を引き起こすあの飲めないアルコールですし、銅シアン化カリウムに到っては高温などにより万一シアンが遊離したりすると、青酸カリ(シアン化カリウム、このうちシアノ基が猛毒です)が発生したのと同じことになります。過酸化水素も、希薄なオキシドール程度ならかわいいものですが、高濃度なものは万一有機物に触れると爆発を起こします。撃墜されて薬液が飛散したり、被弾して操縦席に推進剤や酸化剤が漏れ出したらどうするつもりだったのでしょうか。

 しかし、こう考えられるのも、最適の方式・使用法が確立した現在だからできるわけで、ジェットにしてもロケットにしても、当時は全くの新技術ですから、設計・量産はおろか使用用途まで全て手探り状態だったのです。現代の目から見れば噴き出しそうな珍兵器、珍技術は、全く未知の技術にたいし様々な角度からトライアルし、あらゆる可能性を試した結果、不適な物を捨て去り、最適の形を見出した先達の努力の跡なのです。むしろ、こういったトライアルがあったからこそ、現在最適な形がはっきりしているわけで、こういった様々な失敗から、最良の選択を発見し、我々が無用な失敗を踏まないようにデータを残してくれた技術者に感謝するべきなのです。

 あと、飛行機ついでですので、書いてしまいますと、だいぶ後のことになるのですが、1976年、9月6日、ヴィクトール・イヴァノーヴィチ・ベレンコ空軍中尉がМиг
25で日本の函館空港に強行着陸して亡命を図るという事件がありました。日本のレーダーはМиг25が低空高速飛行に入ると機影を捉えることができず、F-4EJファントムのレーダーは高空から低空の物体を捕らえる能力が低く機影を捉えることができず、けっきょくМиг25の強行着陸を許したという話になっております。







Миг
25




 日本についたМиг
25は分解されましたが、そこでМиг25が「レーダーに真空管を使用している」という報道がなされ、ソ連機は真空管を使用しているから旧式だとか、核爆発の際に発生する強烈なパルス波で、半導体の電子部品だと壊れる(高調波が発生しますと、コンデンサーのインピーダンス(直流における抵抗のようなものだと考えてください、交流でコンデンサー、コイル、抵抗を一括して線形に扱うために考え出された表現方法です)は1/ωCですから、周波数が高いとコンデンサーのインピーダンスは低くなり、当然コンデンサー部分に大電流が集中し、コンデンサーが壊れます。)ので代わりに真空管を使ったとかいろいろ取り沙汰されました。正直、僕が分解したわけではないので、本当のところはわからないのですが、この「レーダーに真空管を使用した」とは、「マイクロ波発振装置にマグネトロン(あるいはクライストロン)を使用した」ということなのではないでしょうか。

 レーダーに使用する電磁波(略して電波)は、マイクロ波です。マイクロ波は波長がわりと光に近いので、直進性がよく、あるいは波長が10cm程度と短いため、10cm以上の物質にあたると反射する、あるいは光に近い性質を持つため、光に関する法則が援用でき、理論的な解析が楽である、等々の性質をもっているため、レーダー技術用の電磁波として研究が進められました。ちなみに、電子レンジ(マイクロウェーブ)に使用されるのもマイクロ波です(日本だと振動数は2.45GHz)。

 さて、では、つぎはどうやってマイクロ波を発生させ、照射するかですが、マイクロ波の発振にはこのマグネトロンやクライストロンを使用するのです。つまり、マグネトロンやクライストロンは、真空封入された容器中で電子ビームを発射し、電子は穴の開いたアノードを通過する際加速され、カソードにたどり着く、という点では確かに真空管なのですが、真空管といって大概の方が思い浮かべるであろうガラス製の真空管の使用用途である整流作用を利用したダイオードであるとか、増幅機能を利用したコンデンサーであるとか、そういった使用目的をもつ真空管とはとはまったく機能が異なります。

 たとえばクライストロンですと、電子銃から飛び出した電子ですが、マイクロ波信号をおくる入力空洞に入り込んだ時点で、マイクロ波電界により負の電荷を持つ電子は加速されたり減速されたりします。その結果、ある電子は加速され、ある電子は減速されるという、速度変調という現象が起こります。この速度変調を起こした電子は、しばらく進むとある電子は早く、ある電子は遅いわけですから、早晩電子が密集した部分と、ガラガラになった部分ができます、これを密度変調と呼びます。この、密度変調を起こした距離のところに、マイクロ波の共振回路(ブランコをこぐとき、ある一定のこぎ方にすると、ブランコがどんどんゆれていきますよね。これと同じように、ある特定の周波数の信号のみ取り出して増幅できるように細工した回路です)にした出力空洞をセットしておくと、密度変調を起こした電子により、出力空洞にマイクロ波電界が誘導され、うまくいけば信号を100倍近く増幅して取り出せる、という仕組みです。

 マグネトロンはもう少し複雑ですが、結局マイクロ波を増幅して取り出すという点では同じです。で、1970年代はといいますと、1963年にエジプト系アメリカ人科学者のガン博士によって、ガリウム砒素(n型半導体)によるダイオード、ガンダイオードに電圧を印加すると、ガリウム砒素の結晶厚に応じてさまざまな波長の電磁波を発振する(マイクロ波ですと10μmで10GHzのマイクロ波を出す)現象が発見され(ガン効果といいます)ましたが、これを利用したガンダイオードが実用化され、マイクロ波の発信に利用されていた時代でした。ですから、西側としては「まだレーダー発振に半導体素子じゃなくてマグネトロン使ってるの?」というのりで、「レーダーに真空管」という報道がなされたのでしょう。また、「レーダーにマグネトロン」とかいても、「ふーん、なるほど」と納得できる人はまずいないでしょうから、やはり報道ですからわからせる(わかったつもりにさせる)必要がありますから、普通でもわかりやすい「レーダーに真空管」と報道したのでしょう。

 この事情には、たしかにソ連の半導体工業の遅れがあげられるでしょう。世界初の太陽電池使用人工衛星の打ち上げ成功、ペルチェ素子を考案したヨッフェを出したロシアのことですから、半導体について知らないはずはなく、むしろ理論面では非常に詳しいはずです。しかし、99.9999999999%の純度が要求されるシリコン生成技術などを駆使し、性能のよい半導体を安定的に大量供給する、というのがどうしてもできなかったのでしょう、品質管理は今なおロシアのもっとも苦手とする分野ですから。そこで、レーダー発振に、確立技術であるため信頼性が高く、半導体を使用せずともすむマグネトロンを使い続けたのでしょう。しかし、おそらくこれにはある程度狙いもありまして、この当時ECCM(対電子妨害対抗手段)が必要となっておりました。もっとも、実際は軽薄短小が進みグラウンド線などが細く設計されてしまった電子回路においては人様の出す妨害電波より、自分が発するノイズのほうがよほどやっかいなように思えますが。

 もしガンダイオードを使用する場合ですと、小出力(数百mW、2004年)というのがこのガンダイオードのアキレス腱です。ですから、ガンダイオード由来のレーダー波を使用する場合、妨害電波などを出された場合、レーダーの周波数をすぐに変更する、あるいは複数の周波数のレーダーを同時に発振して組み合わせて利用し、どれかひとつが妨害されてもその他のレーダーでカバーするという方法をとらねばなりません。ひるがえってマグネトロン、クライストロンということになりますと、これら真空管レーザー発振源の長所は大出力マイクロ波の発振が可能ということです。クライストロンなら3GHzで1MW、30GHzで500W という出力が出ます。

 ですから、恐ろしく強力な出力をもつレーダー波を使用することで、対ガンダイオードを想定した、いくら強力な妨害電波を食らってもびくともしない、をねらったのではないでしょうか…。彼らの性にもあってそうですし、強力なレーダーを使うとは探知されやすいということでもありますが、そこは迎撃機でありますから、自国内で使用するため、そこまで気にしない、むしろ偵察機(衛星偵察がまだ発達していませんでしたから、ステルス性の高い偵察機が自領内に深く侵入してくる時代だったのです。)などがこちらに気づいて退散してくれてもそれでいい、と考えたのでしょうか…?

 以上が、なぜがレーダー発振に真空管を使っていたか僕の推論です。それに信頼性の問題もあります。既知の確立技術を使うなら、そんなに問題はないですが、最新技術はまだ実用化され、試行された時期が短いため、後からどういう思わぬ欠陥が噴出してくるかまだわかりません。(メーカーの保証制度はもともとそういったものだと僕は考えております。)もっとも、単に、いくら旧式でも使えるものは使っとこうと考えただけかもしれませんが。


 
  〜 9. 宇宙開発レース(3)ーПоехали! 〜

 もちろんアメリカも、宇宙におけるソ連の独走態勢を黙ってみていたわけではなく、空軍のチームによるヴァンガードの打ち上げ失敗の後、V-2生みの親フォン・ブラウン率いる陸軍のロケット開発チームは、1958年1月29日、ジュノーT(ジュピターCロケット)で、アメリカ初の人工衛星、エクスプローラー1号を打ち上げに成功しました。

 そこでコロリョフは次は月探査を狙います。最初に打ち上げた三機の衛星は、地球の周回軌道(地球が太陽の軌道をまわるあの軌道です。)にも乗らなかったので、単にメチター(мечта、夢)と呼ばれました。そして、1959年1月2日に打ち上げられた衛星を、月から約6000kmを通過させ、太陽周回軌道に載せることに成功しました。これは、太陽周回軌道にのった初の人工物体となります。そこで、この衛星はルナ1号と名づけられました。ルナ1号は、月から10万kmの地点でナトリウムの蒸気を吐き出し、月には磁場がないことを確認し、この雲は地上から天文学者により観測されました。







人類史上初めて太陽周回軌道に乗った
人工衛星ルナ1号




 その後、1959年9月12日に打ち上げられたルナ2号は、月面に硬着陸(つまりは衝突)し、地球以外の天体に到達した初の人工物体となりました。さらに、スプートニク1号打ち上げ二周年を記念して、10月4日に打ち上げられたルナ3号は、月の(地球から見て)裏側の写真を撮影し、いつも同じ面ばかり地球に向けている、月の裏側を人類は初めて目にすることができました。







地球以外の天体に世界で初めて到達した
人工物体ルナ2号




 ルナ3号は、衛星電源用として、初めて太陽電池を積んだ衛星です。太陽電池ということは、シリコン(半導体)を使用しているということなのですが、このシリコンですが、純度97%くらいだと、金属シリコンといって金属と同じ性質を示し(金属は温度が上がると電気抵抗が上がりますが、半導体は温度が上がると逆にキャリアーがより励起され、電気抵抗が下がります)ます。したがって、ガリウムやリンを極少量混ぜてP型半導体だのN型半導体だを作ろうとした場合、99.999999999%程度の純度のシリコンが必要となります。現在では、1900℃以上の高温で二酸化珪素を溶融し、電気分解で還元して金属シリコンを得、その金属シリコンと水素、四塩化珪素を反応させて液体のトリクロロシランを精製し、このトリクロロシランを、蒸留する、という恐ろしい方法で純度の高い方法で高純度シリコンを精製するわけです。こうして書くのは簡単ですが、実際にこれを行うには、相当な電力・技術力が必要です。







史上初めて月の裏側の写真撮影に成功した
ルナ3号




 1960年、いよいよ人間を宇宙に送る一人乗り宇宙船ボストーク(Восток、ロシア語で「東」という意味です)・シリーズ1号が完成し、5月15日、動物も人間も乗せない空の状態で打ち上げが決行されます。その後、人間の代わりに何匹か犬を宇宙にロケットでおくり、失敗を経て、8月19日、ベールカ(ロシア語でリス)とストレールカ(ロシア語で時計の針)という名前の犬が8月19日に打ち上げれられ、18回地球周回軌道をまわり、ぶじ地球に帰還しました。これは、地球周回軌道から帰還した最初の生き物となりました。

 そして、ラット、ハツカネズミ、ウサギ、モルモット、などの大きさが様々な生き物を宇宙空間におくり、生命体が長期の無重力状態でも生存できることを確認した上で、コロリョフはいよいよ人間を宇宙に送ることに決定し、1961年3月、ソ連共産党中央委員会(宇宙開発担当は後の書記長ブレジネフです)に宇宙旅行の計画書を提出し、それが受理されました。宇宙飛行士は戦闘機乗りから選抜することに決定し、コロリョフは4月5日、自ら戦闘機乗りを集め、一人一人を見て回り、ユーリー・アレクセーエヴィチ・ガガーリンを人類史上初となる宇宙飛行士に決定しました。4月8日に正式決定を通知し、12日には打ち上げ決行という恐ろしいスピード指名でした。







ユーリー・セルゲーエヴィチ・ガガーリン
Гагарин
, Юрий Сергеевич
1934-1968

史上はじめて宇宙空間に滞在した人物




 こうして1961年4月12日8時41分、カザフスタンのバイコヌールの発射台から、ガガーリンの”Поехали!(Go!)”の叫びとともに、モスクワ時間の9時6分、ボストーク1号が打ち上げられました。9時12分で第三ロケットの切り離しが終了し、ガガーリンは遠地点高度320kmの地点に達して90分で地球を一周しました。そうして再突入に移り、サラトフに着陸して、無事に地球へ帰還したのです。こうして人類は、史上初の有人飛行に成功したのです。







ボストーク1号の打ち上げ





ボストーク1号の外見





貨車で運送中のソユーズロケット






ソユーズロケットのスラスター




 上の写真はちょっと先走りますが、ソユーズ(Союз、ソビエツキー・ソユーズ(ソビエト連邦)のソユーズで、同盟とか結合とか言う意味です。)ロケットのものです。このソユーズロケットですが、アメリカのロケットに比べ、スラスターが非常に多い事が写真からわかります。これはおそらく、推進薬を窒素などの不活性の高圧ガスで供給する際の圧力供給法の一方法、ブローダウン方式を採用しているものと思われます。ブローダウン方式とは、推進薬タンクに予め高圧のガスを封入しておきまして、多くのスラスターに分岐させて燃焼室にガスを送り込むことで圧力を下げる方式です。

 ちなみに、現在のロケットとほとんど原理的に差のない、つまりは極めて完成度の高かったV2号などは、燃焼室にガスを送り込むのに、ターボポンプ供給サイクルのヴァルター機関を用いていました。このヴァルター機関は、過酸化水素に触媒の過酸化マンガンを触れさせ、大量の高温(数百度から数千度)の酸素を発生させ、この酸素でタービンを回してポンプの動力源とし、推進薬を燃焼室に送り込むと言うものです。この方式は、高圧のガスにタンクが耐えるためには、タンクを頑丈にするほかなく、そうすると重量が増えて、炸薬を積める量が減ることからとられた方法です。ちなみに、V2号(試作機名A4)の前のタイプ、A3では、圧力供給方式が採用されていました。

 このブローダウン方式の長所は、なんといっても機構が簡単なことです。ほかに、気蓄方式といいまして、高圧の気蓄器から、レギュレーターで減圧して推進薬タンクを加圧する方式もありますが、この方法だと、レギュレーターはもとより、逆止弁、推薬弁などの構成が必要となり、機構が複雑となります。しかし、ブローダウン方式では、推進薬の減少とともに、推薬タンク内の圧力が減少するため、燃焼圧も減少するため、燃焼不安定領域に入った場合危険なのでさっさとカットオフ(燃料供給をストップ)します。したがって、多少燃料がもったいないということになります。製品自体の効率の悪さを、機構の簡単さによる故障率の低さと生産性の高さで補う、これがやはり、ロシアの工業製品の設計思想ではないでしょうか。


 
 〜 10. アメリカとの対決ー東ドイツ講和問題 〜

 ガガーリンを迎える盛大な式典がモスクワで開かれ、宇宙開発の成功を背景にしたフルシチョフは、1961年6月、ウィーンで米ソ首脳会談を行ないます。その席で、問題となったのが西ベルリンです。ベルリンは、分割された東ドイツ領内にあったわけですが、ベルリンは重要都市だったため、この町自体をさらに東西に分割し、西ベルリンは資本主義陣営が、東ベルリンは共産主義陣営が統治していたのです。したがって、共産主義の海の中に資本主義国があるので、ここから東から西への亡命が相次ぎ、国民に逃げられないような国づくりをするのが第一だとは思うのですが、ともかく、ソ連としてもこの問題をもてあましていました。

 そこで、フルシチョフは、何らかの条約的な取り決めが必要だとケネディに訴えました。しかし、強気のケネディは、フルシチョフの要求に応ずる必要はないと返答しました。そこでフルシチョフは怒り、ソ連は自分から戦争を始めることはないが、アメリカが戦争したいなら始めるがいい、と言い放ち、12月までに東ドイツと平和条約を結ぶ態度を明らかにします。東ドイツとソ連が単独講和してしまえば、西ベルリンは共産主義の海の中に孤立し、外部との交通を遮断されてしまいます。

 7月25日、キューバを取られたケネディは、ソ連に対し譲る気はなく、ソ連が西ベルリンにたいし一方的な措置を取るなら、それはアメリカとの戦争を意味すると声明を出し、軍事的な準備を開始するといいます。ここにベルリン危機が発生し、すわ、米ソの軍事衝突か、との事態が発生します。

 しかし、核保有国同士が戦端を開くわけには行かず、フルシチョフとケネディが考えた結果、冷戦の象徴として有名になったベルリンの壁の建築による、東ベルリン封鎖が取られました。8月13日から壁の建築が始まり、フルシチョフの譲歩により、この問題に決着がつきました。







ベルリンの壁の建設




 1961年10月17〜31日、ソ連共産党第22回大会が開催されました。大会冒頭で、フルシチョフは中央委員会報告を行ない、先にスターリン批判を行っておきながら、「スターリンは党と共産主義に対して大きな功績を持っており、われわれはそれを正しく評価せねばならない」と発言しました。1919年のレーニンの綱領以来実に42年ぶりに新党綱領が採択されます。これについてのフルシチョフの報告がおこなわれ、この綱領では、ソ連はプロレタリア独裁国家を脱し、全人民国家になったと宣言され、共産主義への移行開始が主張されます。

 「今後10年間に、ソ連は共産主義の物質的・技術的基礎を作り上げながら、人口一人当たりの生産高で、最も強大で豊かな資本主義国ーアメリカ合衆国ーを上回るであろう。その次の10年間の結果として、共産主義の物質的・技術的基礎が創設され、全国民にありあまるほどの物質的・精神的財貨が保障されるであろう」「ソ連邦では基本的に共産主義社会が建設されるであろう」。つまりは、アメリカに追いつき、追い越せると党綱領を通じてフルシチョフは主張したのです。

 ところが、フルシチョフの部下達が、マレンコフ、モロトフ、カガノーヴィチの1930年代のテロルの関与について触れると、それに注目が集まり、フルシチョフもキーロフ暗殺事件に関する疑惑に触れ、スターリンの友人オルジョキニーゼや、スターリンの最初の妻の兄弟アリョーシャ・スワニーゼの運命について語り、「恣意の犠牲者となった同士達を永久に記念するために、モスクワに記念碑を立てるべきだ」とまで発言し、第二次スターリン批判の場へと変貌します。更に大会では、オールド・ボリシェヴィキの女性ラズルーキナが、スターリンをレーニン廟から出せと、レーニンが夢枕に立ったと発言しました。なんとこの夢が大会決議となり、大会の後、スターリンの遺骸は取り出され、レーニン廟の裏手に埋められました。


 
  〜 11. アメリカとの対決ーキューバ危機 〜

 さて、1960年代のアメリカですが、この時代は公民権運動の波がアメリカ国内を覆い、内政的にも大変だった時期です。1963年8月、キング牧師がワシントンのリンカーン記念堂で「私には夢がある」で始まる有名な演説を行い、幾多の尊い犠牲の末に、人種間の平等をうたった強力な公民権法が1964年成立します。

 その公民権運動の最中ですが、アメリカは外政にも力をいれ、ピッグス湾侵攻作戦の失敗の後、米軍派遣も考慮に入れ、カストロ政権を打ち倒す方式も考えに入れ始めました。キューバを米州機構からはずし、禁輸を禁ずるなど、あらゆる面での締め付けが厳しくなってきました。その上、1962年2月20日、米国防省は、10月をカストロ打倒の月と定め、キューバ・プロジェクトを承認しました。下院ではアメリカの権益擁護なら、ケネディ大統領がキューバに対する軍事行動をとってもかまわないと言う決議が採択されました。







ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ
John Fitzgerald Kennedy
1917-1963

アメリカ第35代大統領
3年足らずの任期ながら、アメリカ国民に鮮烈な印象を残す




 追い詰められたキューバの状況や、アメリカの動きはソ連の察知するところとなり、フルシチョフは革命キューバの運命に心を砕きます。そこでフルシチョフは、ブルガリアを訪問した旅の途中より、キューバにソ連の核ミサイルを配備すると言う考えを抱くに到りました。フルシチョフはこの考えを政権内で相談しましたが、女房役のミコヤンは余りに危険すぎると態度を保留しましたが、フルシチョフはこの考えを実行に移す決心をします。

 第二次世界大戦中、南部方面軍司令部で、当時軍事会議委員だったフルシチョフとともに、司令官として戦ったウクライナ人の国防省マリノフスキーが計画を立て、これまた戦友の戦略ロケット軍司令官ビリューゾフ(当時南部方面軍司令部参謀長)がキューバに渡り、カストロと交渉しました。ビリューゾフはカストロと話をつけ、ロケットがキューバに輸送され、各地に配備されました。

 この動きは当然アメリカの知るところとなります。1962年10月22日、アメリカ軍の偵察機、例のU-2がキューバでソ連の核ミサイル基地を発見したのです。ケネディは、艦艇40隻、兵員2万名をもって2400キロにおよぶ水域に封鎖線を敷き、アメリカの哨戒機が発見したキューバに向かう二隻のソ連船にたいし、停戦・立ち入り検疫・追い返しを行なうことを宣言し、これに応じない場合は撃沈する容易があると明言しました。さらに、ケネディはフルシチョフに核ミサイル撤廃を求める最後通牒を送りました。いわいるキューバ危機の始まりです。







アメリカにより発見されたキューバの中距離核ミサイル基地






アメリカ哨戒機に発見された二隻のソ連船




 フルシチョフは23日、ケネディの要求を拒否し、検疫に対する抗議の手紙を送ります。しかし、ケネディは25日、キューバ危機に対する遺憾の意を表明した手紙を送り、アメリカは戦争準備を進めます。フルシチョフは迷った挙句カストロと相談せず、ケネディに手紙を送り、キューバからのミサイル撤去の代わりに、検疫の停止とキューバ侵攻の中止、トルコからの核ミサイル撤去を提案します。

 その間にも両国の戦闘準備は進み、アメリカはアトラス、タイタンなどの核弾頭を搭載した弾道ミサイルを発射体制に置き、ソ連もソ連本土のР-7、キューバのР-12を発射態勢におきます。

 27日、さらにU-2がソ連の対空ミサイルにより撃墜されました。アメリカでは討議が行なわれ、トルコからの核ミサイル撤去は認められないとの結論に達します。ケネディは検疫の中止とキューバ侵攻は行なわないと約束する手紙を送りますが、弟で司法長官のロバート・ケネディをソ連駐米大使ドブルィニンのもとに送り、政府内部の圧力が強く、トルコの核ミサイル撤去には応じられないことを伝え、これを了承させます。

 同じ27日、カストロから米軍の攻撃が24時間〜72時間の間に行なわれるであろう。もしキューバ侵攻となれば、核ミサイルで応戦すべきだとの手紙が届きました。

 28日には、ケネディが緊急テレビ演説を行い、その演説に先立って教会に行くとの情報が入りました。アメリカ大統領が開戦を決定する際には教会を訪れるのが通例となっていましたから、これはひょっとするとアメリカがソ連との開戦を決意したということである可能性もきわめて濃くなってきました。結局28日、フルシチョフは、ケネディの条件でミサイルを撤去するとの最終回答を送ります。

 
ー「われわれが平和を愛好する気持ちは、おそらくどの国民よりも強いだろう。それは我々がヒトラーとの恐るべき戦争を経験したからである。…われわれは自国民と世界の輿論にソヴィエト政府は挑発に乗らないと確約する。しかし、挑発者が戦争を放火すれば、彼らは責任と戦争がもたらす重大な結果から免れることはできない。しかし、われわれは、理性が勝利する、戦争は押し付けられない、平和と諸国民の安全が保障されると確信している。」ー

 こうして、核戦争の危機は回避されました。結局、ソ連のミサイル配備により、アメリカは最終的にキューバの侵攻を諦めたということになります。

 しかし、怒ったのはカストロです。何の挨拶もなくミサイルが撤去されることを約束されたことにカストロは怒り、この後始末をつけるために派遣されたのがミコヤンです。ミコヤンは侵略の脅威が余りに厳しかったので、相談の時間がなかったためで、ミサイル配備はあくまでもキューバ防衛のためだったと弁解しました。カストロの怒りは収まりませんでしたが、ミコヤンの夫人の死去の報が伝わり、会談は一旦は中止となります。

 夫人の死に目に会えなかったミコヤンですが、ミコヤンはそのままキューバにとどまり、ミサイル撤去交渉を纏め上げます。フルシチョフはその後、アメリカとの協調政策を打ち出し、1963年7月25日、部分的核実験停止条約を仮調印し、これは核保有国の核独占を狙うものだと中国から激しい反発を受けます。


 
〜 12. 宇宙開発レース(3)ーヴァスホート帰還 〜

 こうして宇宙開発レースではソ連の先行が続いたのですが、やはり相手はなんといってもフォン・ブラウン率いるアメリカです。アメリカはガガーリンに続いて続いて、1961年5月5日、アラン・シェパードの乗るマーキュリー宇宙船を、アメリカ初の弾道飛行にのせることに成功します。その60日後、負けじとソ連はゲルマン・チトフを載せた5トンのヴォストーク2号を打ち上げ、地球を17周します。

 そこでアメリカは、大陸間弾道ミサイルとして完成したアトラス・ロケットを改良し、ジョン・グレンを載せたマーキュリー宇宙船を打ち上げ、軌道飛行に成功します。さらにこののち、アメリカのゴールデン・クーパーが地球を17回まわり、ソ連では世界初の女性飛行士、ヴァレンチーナ・テレシコヴァが宇宙に行くなどし、つまりは、アメリカの宇宙開発技術が、まだまだソ連優位とはいえ、ほぼソ連に追いつき始めていたのです。

 さらに、1962年末には、アメリカで月面旅行のための計画が固まります。まずはサターン5号という三段式の巨大ロケットで、三段目と三人の宇宙飛行士の乗る、アポロ宇宙船(円錐形の強靭な部分が指令船で、三人の宇宙飛行士がのり、真ん中の円筒形の部分が機械船で姿勢制御・推進・燃料電池による電力供給を行い、最後の部分が月着陸船です。)を地球周回軌道に乗せます。そして軌道上で最後の点検を行い、月への周回軌道に乗せるべく、三段目が6分の燃焼を行なって遷移軌道に移り、その後切り離されます。

 そしてアポロ宇宙船から、月着陸船が切り離され、方向を180度変えて再結合し、広がった居住空間の中で月着陸までの3日間半を過ごします。そして、月面着陸時には、一人の宇宙飛行士が指令船及び機械船に残り、二人の宇宙飛行士が月着陸船で軟着陸します。そしてミッションを終えると、下半分を発射台にして月着陸船が飛び立ち、機械船および指令船とドッキングします。この時点で月着陸船は廃棄され、機械船のエンジンが点火し、機械船及び指令船は地球に向かう遷移軌道にむかいます。地球大気に近づいた際、機械船は切り離され、指令船のみ地球へ戻り、パラシュートを開いて着水となります。

 さらには、月面到達を最重要事項と設定したフォン・ブラウン率いるアメリカのNASAは、一人ではとてもではないが月面到達と言うミッションを達成することは不可能だと考え、二人乗りの宇宙船、ジェミニの開発に取り組みます。この話を公開論文で知ったソ連側はあせり、フルシチョフは三人乗り宇宙船をすぐに開発するよう命じます。しかし、いくらやれといわれても、技術の壁は人間の都合で手加減してくれたり、匙加減を働かせてくれたりはしません。そこでやむなく、もともと一人乗りのヴォストークを、むりやり三人乗りに改造した複数乗員式のヴァスホート(Восход、日の出や月の出、とにかく天体の出、あるいは日の出の方角と言うことから、東)・シリーズの設計が進められました。

 ところが、設計はしたものの、もともと一人乗りの大きさの宇宙船に三人詰め込むのですから、スペースが足りず、三人の宇宙飛行士は、宇宙服を着込まず宇宙船に乗ることになりました、打ち上げ・宇宙飛行中・再突入時に、万が一何かの理由で船外に空気が漏れるような事態が発生したら、三人とも即死です。さらに、三人の脱出用の射出ハッチも三つ空けることができず、結局緊急脱出装置なし。射出ハッチがないので、地球に宇宙船が帰還した際、これまでは宇宙飛行士だけ宇宙船から射出し、宇宙飛行士がパラシュートで着陸する方法でしたが、今回はヴァスホートに逆噴射装置をつけ(制御が恐ろしく難しそうです)、パラシュートで減速して軟着陸させると言う方法が取られました。コロリョフは、パラシュート引火したらどうするのか危惧したということですが、設計者のセヴェーリンの、火災の発生する危険は少ない万一引火してもキャビンが熱を遮断するとの意見で、他に有効な代案もなく、コロリョフも許可しました。







ボストーク1号、ヴァスホート1号、ヴァスホート2号の見取り図
ボストーク1号が基本となっていることがわかります。





ヴァスホート1号で宇宙へ行ったメンバー


(左)コンスタンチン・ペトローヴィチ・フェオクチーストフ
Феоктистов, Константин Петрович
1926-

(中)ウラジーミル・ミハーイラヴィチ・コマロフ
Комаров, Владимир Михайлович
1927-1967

(右)ボリス・ボリソーヴィチ・エゴロフ(医師)
Егоров, Борис Борисович
1937-1994



 打ち上げ6日前に無人飛行が行なわれ、1964年10月12日、フェオクチーストフ、コマロフ、医者として初めて宇宙に出たエゴロフらを乗せたヴォストーク1号は16周の軌道飛行に飛び立ちました。プロジェクト承認後わずか7ヶ月というこの恐ろしいスピード決行はからくも成功を収めます。あの狭さですから、三人は実際はなにもできなかったわけですが、10月14日に三人は無事地球に帰還し、これでなんとかソ連は宇宙開発先進国としての面目を保ちました。

 皮肉にもこの翌日、フルシチョフは「宮廷革命」をおこされ、失脚してしまうのです。


  
 〜 13. 農政の破綻ーフルシチョフ失脚へ 〜

 さて、農業を犠牲に工業化を推し進めたスターリンと異なり、農政に力を注いだフルシチョフですが、その肝心の農業政策の破綻がはっきりし始めたのです。ます、カザフスタンの開拓ですが、森林によって保護されていないステップを開墾した結果、肥沃な表土が風で吹き飛ばされ、1963年までに数百万ヘクタールの農地が失われてしまいました。

 また、とうもろこしの作付けですが、ノルマ達成のため、休閑地の2/3に当たる面積にも作付けが行なわれ、結果農地が疲弊し、冬の作付けでは6週間も遅れてこの疲弊した農地に作付けが行なわれ、作物が根を張るのがおくれ、1963年の厳冬に全滅し、さらにその後に春の作付けが行なわれましたが、これも旱魃で全滅し、1963年の収穫は、前年より4000万トン減となり、1957年の水準にまで落ち込んでしまったのです。

 ここにいたって、新フルシチョフ派で固まったソ連政界で、反フルシチョフのクーデターが起こるという事態が発生したのです。

 直接のきっかけは、1964年7月15日、最高会議の終わりに、フルシチョフは当時最高幹部会議長(ソ連元首です)であったブレジネフを解任して書記に専念させることにし、ミコヤンを最高幹部会議長に任命したのです。フルシチョフ農政を勤め上げてフルシチョフの権力を固め、コロリョフらによるソ連宇宙開発を党側から担当し、ソ連とフルシチョフの権威を絶頂まで高めた影の功労者であるブレジネフの、この地位からの解任は、彼の心を如何に傷付けたか、想像するに察して余りあります。

 夏の間に、ブレジネフと、スースロフら、フルシチョフの失政を憂う一派の間で陰謀が行なわれ、10月13日、フルシチョフとミコヤンが、旧ソ連圏屈指の保養地ソーチから車で1時間のピツンダの、松林に囲まれる最高の立地条件のダーチャで休養している間、ブレジネフが党中央委員幹部会(政治局)を開催し、フルシチョフに帰京するよう求めることを決定します。フルシチョフはこのとき別荘にフランス科学相ガストン・パレウスキを昼食会に招き、6時間にわたる昼食会を行うはずでした。

 しかし、党書記スースロフから電話があり、フルシチョフの党中央委員幹部会への出席を求めました。フルシチョフは今は休暇中なので自分抜きで決定を行ってもよいと返事をしますが、スースロフが承知しなかったので、ヴァスホート歓迎会があるのでモスクワに帰らねばならないとガストン・パレウスキに詫び、会見を短時間で打ち切ると、飛行機で二時間後にモスクワに到着しました。

 空港から帰ったその足で党中央委員幹部会に向かったフルシチョフは、ミコヤンを除く全員から非難され、健康上の理由から第一書記、首相を辞任するよう要求されます。党中央委員の組織・党活動部門担当のブレジネフ書記、コスイギン第一副首相らの11人が集まっており、議長席にはミコヤン最高会議幹部会議長(スースロフだったとの説もあり)が座っていました。幹部会員は、11年間のフルシチョフの政治の欠陥を数えたてました。

 内政では、農政の失敗、党の機構を農業と工業に二分して混乱を起こしたこと、文学や芸術に対する態度があやふやだったこと(君子は器ならず、ですからこれは仕方がないと思います。)。外政では、キューバにミサイル基地を建設しアメリカとの対立の火種を作ったうえにケネディに譲歩してソ連の威信を傷つけたこと。中ソ対立を引き起こし、共産主義陣営の団結を壊したこと。娘婿のアジュベイを重用して西側諸国との重要交渉に当たらせた身内びいき、自分の思い付きを押し付ける集団指導体制の無視、さらに国連総会その他の公開の席での粗野なふるまい、などなどが槍玉にあがったといいます。

 フルシチョフ解任動議が賛成多数で可決され、フルシチョフはこれに抵抗した模様ですが、これまで苦楽をともにした、女房役のミコヤンから説得され、辞任を受け入れます。もっとも、フルシチョフはこの動議に抗議し、かつて彼がマレンコフらの反撃、「反党グループ」事件を乗り切ったときと同じく中央委員会総会の開催を要求し、土壇場での逆転劇を画策したとの話もあります。

 ともかく、10月14日朝、『コムソモールスカヤ・プラヴダ』と『イズヴェスチャ』からフルシチョフの名前が消え、モスクワのテレビ、ラジオからもフルシチョフの名前が消えました。中央委員会総会が開かれ、フルシチョフが党中央委員会幹部会で辞任を受け入れたという説では、フルシチョフ欠席のまま、辞任が決定されます。フルシチョフが解任動議に抗議した説では、この中央委員会ではフルシチョフ自身も出席し、イデオロギー担当書記のスースロフが四時間にわたりフルシチョフの29の「罪状」を挙げ、フルシチョフ退陣を主張しましたが、フルシチョフ自身も反論し、8時間に渡る討議の末、多数決でフルシチョフの党第一書記からの解任とブレジネフ新第一書記の選出が決まったといいます。ともかく、後任人事として、ブレジネフが第一書記、首相はコスイギンに決定します。翌年12月、ミコヤンが最高幹部会議長を辞任し、後任としてポドゴールヌィが任命されました。こうして、三人集団指導体制が固まったのです。

 10月15日、ミコヤンが議長をつとめた最高会議幹部会が開催され、幹部会員全員が満場一致でフルシチョフの首相からの解任に賛成しました。ただ、フルシチョフの希望を容れて、解任の理由は「高齢と健康悪化のため」とされました。幹部会は新首相にコスイギン第一副首相を昇格させたといいます。同日に開かれたキューバ大統領ドルチコスのお昼の歓迎レセプションにはミコヤンが出席しました。夜の10時30分、赤の広場の入り口近くのホテル・モスクワの正面に掲げられていたフルシチョフの肖像画が取り外されていました。

 10月16日、午前0時5分、モスクワ放送はフルシチョフ解任を公表し、タス通信は世界に向かってこのニュースを伝えます。明け方5時の放送でもフルシチョフ解任が伝えられ、対部分のソ連国民もフルシチョフ解任を知ることになりました。


 
〜 14. フルシチョフ時代のおわりにー余生と総括 〜

 こうしてフルシチョフは、市内のアパートとダーチャ(セカンドハウス、日本語では別荘と訳されますが、たいがいは、郊外に持っている農地に付属した、納屋に宿泊設備がついた小屋のようなものです。)1ヶ月500ルーブリの年金生活者と相成りました。その処遇を知らせにミコヤンがフルシチョフを訪れたのが、ミコヤンとの今生の別れとなります(のちダーチャはより小さなものに変更され、年金も400ルーブリとなります)。

 フルシチョフは追放後2年後、回想録をテープに吹き込みはじめます。これは当局の察知することとなり、1968年フルシチョフは呼び出され、これをやめるよう命令しますが、フルシチョフは従いませんでした。やがて、この回想録を国外で出版することとなり、アメリカの出版社に原稿が手渡たされました。1970年、フルシチョフは入院することになりましたが、その際КГБが原稿を預かることになり、この時点でフルシチョフの息子のセルゲイが、アメリカの出版社に手渡しておいた原稿を基にした回想録の海外出版にOKを出します。いわいる「フルシチョフ回想録」と呼ばれるものです。

 1971年9月11日、フルシチョフは78歳で亡くなりました。そのなきがらは、ノヴォジェーヴィチー修道院に埋葬されることになります。この墓地には、作家のゴーゴリ、チェーホフ、31歳で自殺したスターリン夫人のアリルーエヴァの胸像が飾られた大理石の墓標などがあります。また、映画監督のエイゼンシュテイン、作家のプロコフィエフらのお墓もここです。ただ、スターリンらが葬られたレーニン廟裏手の一級の墓地、あるいはクレムリンの壁の中に骨壷を収める第二級の墓地に比べれば、在任中に解任されたフルシチョフの眠るこの墓地は第三級のものです。

 フルシチョフが行なったスターリン批判は、たしかにスターリン時代の重苦しい雰囲気を追い払い、ソ連時代の政治に一つの区切りをつけたものでした。しかし、その他の点においては、外交的には、最大の同盟国中国に離反され、短期間のうちにアメリカを凌駕すると言う無茶な目標をたて、この点ではアメリカも同じですが、航空宇宙・軍事・核開発技術などといった、超重科学工業にのみ力を注ぎ、まっとうな需要供給の商業ベースにのる民生品の開発をなおざりにしたため、国の経済を最も潤す、世界に売り出せ得る製品を生産できず、いまなおこれはロシアの課題となっているなど、問題の多い政治を行ないました。特に農政の失敗は明らかで、正直、ゴルバチョフ、マレンコフと並んで在任中に失脚させられただけのことはある人物だと言うのが僕の結論です。


     ーーーこのページの主要参考文献ーーー

   ・『物語 アメリカの歴史』
    猿谷 要 著
    中央公論社

   
・『ソ連共産党書記長』
    木村明生 著
     講談社現代新書


   
・『クレムリン物語ーソビエト権力の構造』
    木村明生 著
     朝日新聞社

   
・『世界の歴史 16』
    松本重治 著
     中公文庫


   ・『ロシア史 3』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
     山川出版社

   ・『月を目指した二人の科学者』 
    的川泰宣 著
     中公新書


   ・『報復兵器V2』 
    
野木恵一 著
     光人社

   ・『閑談・金属学』 
    崎川範行 著
     三共出版株式会社


   ・『飛行機物語』 
    鈴木真二 著
     中公新書


   ・『ロケットエンジン』 
    中村佳朗 監修 鈴木弘一 著
     森北出版株式会社


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