ソビエト時代(7)

〜〜 アメリカとの対決とウクライナ派の台頭 〜〜



ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフ
Хрущёв, Никита Сергеевич
1894-1971

 共産党第一書記(первый секретарь)、首相

アメリカとの全面対決に乗り出す。

 


Российская
История

Российская
История


 

 二次世界大戦で壊滅的な被害を受けた列強諸国はその惨禍から二度と立ち直ることができず、戦後しばらくは植民地主義も命脈を保っていたもの、民族主義の台頭により、アジア・アフリカの植民地に次々と独立され、自国が特権的な立場を享受できる市場・原料供給国を失い、昔日の力を失います。

 こうして第三世界といわれる勢力が地球上に誕生しました。しかし、列強、特にイギリス・フランスの去った地域には、政治的真空地帯が生まれたということであり、第二次大戦後の世界の覇者となったアメリカ・ソ連が、この地域に手を伸ばし始めます。

 慎重なスターリンは一国社会主義論をとなえ、資本主義国との緩衝地帯とウラン鉱が入手可能な地域以外にソ連の影響力を伸ばしはしませんでした。しかし、フルシチョフは方向を転換します。帝国主義・植民地支配に乗り遅れた国であり、したがって多くのアジア・アフリカ地域で「手を汚していなかった」ロシアは、第二次世界大戦後の民族主義の勃興と独立運動に、共産主義とタイアップした援助を与えて独立させ、自らの与国にしようとしました。西側先進諸国に対抗し、いわば第三世界の雄として、ソ連の勢力を世界に拡大しようとしたのです。


  〜 4. スエズ動乱ーソ連中東政策の成功 〜

 時代はさかのぼりますが、1956年十月末、第二次中東戦争がはじまります。そもそもの発端は、1956年7月20日、、英米が、エジプトのアスワン・ハイダムの建設への、世界銀行からの二億ドル融資を取り消したことから始まります。ナセルのアラブ民族主義、ソ連よりの姿勢を苦々しく思ったイギリス首相イーデン(奇しくも、あのチャーチルの片腕で、外相として第二次世界大戦を戦いぬいた、対ナチ強硬派のあのイーデンです。)の、エジプトに対する強硬姿勢でした。これに怒ったナセル大統領が、1956年7月26日、アレキサンドリアの中央広場で行なわれた、ナセル革命四周年記念の演説で、スエズ運河の国有化を宣言します。







ガマル=アブドル=ナセル
1918-1970

スエズ運河国有化でアラブの雄となる




 スエズ運河は確かにエジプトにありますが、実際に運河を建設したのはフランス人技師レセップスですし、エジプトのイスルマイリ・パシャから株を買占め、とんびが油揚げをさらうようにフランスからスエズ運河の所有権を握ったイギリスですが、両者は運河で計り知れない利益を得たものの、少なくともこれまでの経営は行なっておりました。1936年のイギリス・エジプト条約では、運河はエジプトの主権にあると明記されていたとはいえ、そのイギリス・フランスから突如スエズ運河を奪い取るとは、小国とみられていたエジプトが思い切った行動にでたものです。

 当然この動きに英仏は反発し、さらに、イスラエルがフランスの側に立ちました。アルジェリアを植民地とするフランスは、ナセルを旗振り役とするアラブ・ナショナリズムの勃発をおそれており、イスラエルとしては第一次中東戦争での主要武器輸入先のチェコスロヴァキアがエジプトにミグ15戦闘機150機、イリューシン28爆撃機50機、潜水艦などを大量売却した経緯があり、できることなら新たな武器調達先を求めていたイスラエルの目がフランスにとまったのです。

 10月25日、不穏な動きを見せるイスラエルに対し、エジプト、シリア、ヨルダンは参加国による軍事同盟を締結します。地勢的深さに欠け、周囲を敵に囲まれたイスラエルは、10月29日、輸送機16機でもって空挺部隊395人を降下させ、戦端を開きます。英仏は10月30日、共同で停戦を要求し、エジプトがスエズ運河から15km離れた地点で撤退し、運河通過の自由を確保するため、英仏軍が運河沿いの拠点に展開するというものでした。エジプトがこんな条件を受け入れようはずもなく、とうぜんナセルはこれをけります。

 そこで、第二次中東戦争には英仏も参加し、10月31日、戦闘爆撃機200機がスエズ運河沿いの都市を空爆し、11月5日には英仏の空挺団がスエズ運河沿いの重要都市ポート・サイードに展開し、翌日同市を包囲します。もはやエジプト一国でイギリス、フランス、イスラエルと戦っているようなものでした。

 ところが、ここで米ソが動きます。まず、ソ連ですが、ソ連首相ブルガーニンは「もしロケット兵器がイギリスとフランスに対して使用されたら、あなた方は野蛮行為だとよぶだろう、しかしそれは両国の軍隊が殆ど無防備のエジプトに行なっている非人道的政策と、なんの違いがあるのだろう」と、核使用も辞さないことを示す声明を発表します。

 もう一方のスーパーパワーアメリカですが、大統領選挙を一週間に控えたアイゼンハワー米大統領は激怒し、国連に、即時停戦とエジプトからの撤退をもとめる決議案を提出しました。国連総会は、賛成64、反対5でこれを可決します。さらにアメリカは、イギリスが国連の国際通貨基金(IMF)から十億ドルの緊急融資を必要としていることに関し、停戦が条件だと答え、また、保有するポンド債を売り払い、ポンドを暴落させると警告しました。

 さらに悪いことにイギリス国内でも足並みはそろわず、当時野党の労働党はあらゆる手段をとって出兵に反対すると警告、トラルファガー広場は三万人の群集の抗議集会で一杯となり、イギリス連邦内でもカナダはこの処置を非難、インド、パキスタン、セイロン、は連邦からの脱退をほのめかすありさまでした。政府内でも外務担当の国防相アンソニー=ナッティングはイーデンの狂気には責任を分かてないと辞任を提出します。

 やむなくイギリスは、停戦決議の受け入れを表明します。フランスもこれに追従し、ペングリオン首相のイスラエルは、かなり抵抗しますが、アイゼンハワーの「両国の友好的な関係は終わるだろう」とのコメント、イスラエルに対する金融支援の交渉の凍結、さらには在米ユダヤ人のイスラエルに対する寄付への課税もちらつかせ、結局態度を改めさせます。

 12月12日、英仏軍はポート・サイードから撤退し、イスラエルも国連の圧力で1957年の3月4日、ガザ地区とシャルム・エル・シェイフから撤退します。さらに、イスラエル軍に代って国連部隊が停戦維持のため展開します。大国間の思惑でナセルは助かり、一躍エジプトの英雄扱いとなり、アスワンハイダムの資金提供はここで抜け目なくソ連が行なうこととなります。1957年1月初め、イーデンは首相を辞任しました。

 この事件は、英仏の中東情勢介入を米ソが阻止したということであり、国際政治における新旧役者の交代、植民地を擁する帝国主義的国家の崩壊と、新たにのし上がった資本主義国家と民族主義に頼る共産主義国家の二極対立が、世界の新たな争点となったことを如実に表す事件でした。

 ところが、この英仏の中東からの撤退は、中東が政治的真空地帯となったということであります。といいますか、アスワンハイダムの資金提供により、いち早くソ連がナセルの庇護者という形になったのですが、ソ連が肩入れするナセルの中東への影響力が、このスエズ運河国有化によって飛躍的に強まりり、アラブ民族主義者がわれもわれもとナセルになびくと言うことは、中東におけるソ連の影響が飛躍的に強まったということです。誰がソ連側の仕掛け人なのか今の僕にはわかりませんが、中東ソ連外交の大々成功です。

 さらに、このころ中東ではバース党が勢力を伸ばし始めていたのです。バース党とはアラブ社会主義、民族主義、軍国主義、凡アラブ主義がまざった政党です。シリアのミシェル・アフラクによって思想が練られたこの政党は、1947年4月7日にシリアのダマスカスで党大会が開催され、将校・知識人の間に広まっていきましたが、次第に勢力を伸ばし、1958年までにはシリア・イラク・ヨルダン・レバノンに支局を置くまでになっていました。社会主義ですから、やはり共産主義と近く、ソ連と交渉があり、ベトナムなどでもそうでしたが、民族主義に共産主義をつきまぜて、旧植民地の独立運動を支援し、ヨーロッパ列強の去った旧植民地に誕生した第三世界に浸透していくのがソ連のやり方でしたから、バース党の力を持った地域はソ連の影響力が大きくなっていったのです。

 中東にいつの間にやらソ連の影が忍び寄っているのに気がついたアメリカは、この情勢を猛然と挽回すべく、1957年1月、アイゼンハウアー大統領が、ソ連勢力を中東に浸透させまいと国際共産主義の武装侵略が起こった場合、アメリカは侵略を受けた中東の国の主権、独立を守るためには武力を使っても援助する、また、中東の経済発展のため四億ドルの援助を行なうと発表しました。この声明はアイゼンハウアー・ドクトリンと呼ばれ、東地中海の対共防衛をアメリカが担うと宣言したトルーマン・ドクトリンの中東版です。

 この動きに当然ソ連は反発し、1957年2月フルシチョフは最高会議を開いて対策を協議、イラン、トルコ、日本、西ドイツ等のアメリカの同盟国に警告を発しました。中国は、独自の動きを見せ、周恩来が東欧諸国を歴訪し、さらにインドのネールとも提携する動きをみせるなど、共産圏は、一枚板とはいえませんが、アメリカにたいし対抗措置を取ります。

 アメリカは、中東でソ連にカウンターを食らわせます。まず問題がおこったのはヨルダンです。それまで、ソ連の後ろ盾を持つナセルの成功から、エジプトに接近してきたヨルダンですが、アメリカは、三千万ドルの軍事援助金をヨルダン国王フセイン1世におくり、国王によるアラブ派(=エジプト寄り=ソ連寄り)首相ナブルシを軟禁してクーデターを成功させ、ヨルダンをソ連から切り離します。

 ついでアメリカの矛先はシリアに向かいました。シリアは1949年から1954年まで五回のクーデターが起こりましたが、やがて1957年、急進アラブ民族派(ソ連寄り)アフィフ・ビズリ少将が登場し、ソ連と経済援助交渉を進め、アメリカ派である保守派の高級将校たちを次々と解任します。この状況に危機感を強めたアメリカは第六艦隊を終結させ、トルコはこれに呼応し大軍をシリア国境に移動させます。

 この動きに対してフルシチョフはソ連軍を国境に移動させ、「アメリカが中東で戦争を起こせば、世界戦争に発展するだろう。トルコは24時間は持つまいし、アメリカは大打撃を受けるだろう」と警告しました。自国内で米ソ両国の直接衝突の起こりそうな雰囲気を感じ取ったシリアは寄らば大樹の陰ということで、1958年2月、エジプトと連合し、エジプト・シリア両国によるアラブ連合が誕生しました(三年で解消しましたが)。これにより、ソ連は、シリアをソ連よりの国として中東に残すことに成功します。

 さらに、アメリカはレバノン情勢に介入し、第六艦隊を派遣しますが、この頃のソ連外交というのは恐ろしくアクティヴでして、中東におけるアメリカ軍主力がレバノンに釘付けになっている隙に、なんとアラブ民族派のカセム代将、アレフ=アレク大佐ら青年将校率いるイラク軍がクーデターを起こし、アメリカ寄りの国王ファイサル、皇太子アブドル=イラー、首相ヌリ=サイードを殺害してしまったのです。

 こうして中東でナセルに唯一対抗できると言われたヌリ=サイドが死亡し、中東におけるソ連封じ込め国際機構バグダッド条約の中心国イラクが陥落したということは、中東ソ連封じ込め戦線の崩壊以外の何物でもありません。ちなみに、これ以降イラクは中東政策におけるソ連の橋頭堡となり、だいぶ後になって、アメリカの親子のブッシュ大統領がイラクを二回攻撃し、フセイン政権を崩壊させることで、中東から旧ソ連の勢力を一掃したのは記憶に新しいところです。

 さて、この動きに対してアメリカは極めて敏感に反応し、1958年7月15日、海兵隊をベイルートに上陸させ、核武装したジェット機を積んだ空母、核ミサイル武装した巡洋艦を覇権、イギリスの空挺団がヨルダンに降下し、全政界のアメリカ軍基地に作戦準備態勢を命じました。

 そのときアラブの盟主であったナセルはユーゴスラヴィアにいましたが、急遽モスクワへ飛び、フルシチョフと会談し、イラクがアメリカから攻撃された場合、アラブ連合は直ちに参戦するが、その際のソ連からの支持を頼み、フルシチョフは快諾しました。あわや第三次世界大戦か、というところです。

 1958年8月8日、国連で緊急総会が開かれます。フルシチョフは本当は米英仏ソ、インド、国連事務総長を加えた首脳会談を開く提案をしたのですが、毛沢東はアメリカは砲門を向ければ「張子の虎」となると発言(???)、首脳会談に強弁に反対し、ながれてしまったのです。毛沢東は実際アメリカを「張子の虎」にするべく、緊急総会が終わった二日後、アメリカの中国大陸への掛け橋、かつアメリカの同盟国たる台湾の金門島へ猛砲撃を加えました。

 結局アメリカやその他西欧六カ国は中東からの撤兵は米英に任せるとの決議案にたいし、中東動乱の解決をハマーショルド国連事務総長に預けると言うアラブ10ヶ国共同決議案が激しく鬩ぎあいましたが、結局アラブ決議案が満場一致で通過し、アメリカ・イギリスが中東から一時撤退ということで決着しました。ソ連は現代において不可欠のエネルギー資源を押さえるアラブの大油田地帯にその手をのばすことに成功したのです。


〜 5. フルシチョフ外交ー中ソ対立と米への歩み寄り 〜

 中東情勢の不安定化の中、1957年10月4日のスプートニク打ち上げ成功は、プロジェクトリーダーのコロリョフよりもフルシチョフの威信をいやがうえにも高めました。この国民の熱狂を背景に、1958年フルシチョフはブルガーニン首相を解任し、自らが首相を兼任します。フルシチョフ主導のカザフスタン開墾による一時的な成功により、前年比30%増の1億3470万トンを記録しました。

 この成功を背景に、フルシチョフは、コルホーズの生産性を高めるため、トラクターのコルホーズへの売り渡しを企画します。こうしてコルホーズを大型化し、ソフホーズ(国営農場)化することで、生産性を高めようとしますが、これはかえってコルホーズの負債を増やす結果に終わります。

 また、1957年1月、イタリアの共産党系出版社フェルトネリから、1955年に完成したパステルナークの長編、『ドクトル・ジヴァゴ』が出版されます。ちなみに、この『ドクトル・ジヴァゴ』は、非常に文章が難しく、数あるロシア文学の中でも読解としては最難関の部類に入ります。

 スターリン批判の潮流に力づけられ、パステルナークが
この作品をソ連で公表しようとしましたが、さまざまな経過がありましたが結果的に『ノーヴィ・ミール(新世界)』編集部は、10月革命を否定する作品だとして掲載を拒否します。確かにこの『ドクトル・ジヴァゴ』の内容は、そこまであからさまでないにしろ、言ってみればプレ収容所群島ですから、そりゃそう判断されるでしょうね…。

 ただ、『ドクトル・ジヴァゴ』は本物の文学作品でして、収容所群島のように全編これソ連体制の批判と怨念といったものではなく、移行期のさまざまな矛盾・悲劇噴出の真っ只中に放り出された、打倒されるべきブルジョア階級でもなければ、この波に乗ってのし上がる前衛的プロレタリアートでもない、でも、主人公のジバゴは医者ですので、それなりの苦労はしますが、例によって例のごとくこのような大変革期にはいつも犠牲になり、内戦の戦火に追われ路頭に迷う一般大衆でもない、浮き上がったインテリゲンチャの苦悩、といった感があります。

 同じ巨大な運命の輪に巻き込まれるのでも、『戦争と平和』の主人公達のような、主体的なヒロイックな巻き込まれ方、困難の中でも雄雄しく人間らしく生き、そして稀代の用兵家ナポレオンを終局的に破った民族の記念碑、でなく、中の上市民の、傍観者的な巻き込まれ方、市民的な人間模様で生き、何せ内乱ですからどちらが勝ったところで墓場の平和、ただのユダヤ人であるがためにロシア社会からはじかれ続け、帝政ロシア時代でも革命後でも行き場がなく結局狂死する主人公ジバゴ、を描いた作品なのでしょうか。内容からしてただのソ連体制批判ともとても思えません。

 ただ、安易なソ連体制批判の道具になりかねない、とイデオロギー部門担当者は判断したんでしょう、ソ連ではこの作品は出版を断念せざるを得ませんでした。ところが、パステルナークの住んでいたペレルキノまで訪れてきたイタリア共産党員ダーンジェロにパステルナーク本人が手渡した原稿がイタリアに持ち込まれ、先述したようにイタリアでこの作品は出版されたのです。1958年、パステルナークにノーベル文学賞が授与されることとなり、フルシチョフとイデオロギー部門担当書記のスースロフは協議して、パステルナークにノーベル賞辞退を迫ります。

 パステルナークはこれを拒絶しますが、作家同盟はパステルナークを除名し、結局パステルナークはノーベル賞を辞退する旨の電報を打ちます。しかし、フルシチョフはパステルナークの国外追放をほのめかします。そこでパステルナークは手紙をしたため、パステルナークを気遣った周囲も、後悔と謝罪の手紙を書き、彼に署名させて郵送し、当局の許しを取り付けました。これで事件は終了しました。

 しかし、スターリン時代におそらく無実の罪で懲役8年を宣告され、1958年に名誉回復を果たしたソルジェニーツィンが1962年に発表した『イヴァン・デニーソヴィチの一日』はフルシチョフのお咎めなしでした。この『イヴァン・デニーソヴィチの一日』の内容はイヴァン・デニーソヴィチの強制収容所での一日を描いた、『ドクトル・ジヴァゴ』より遥かに過激で、本人の怨念もたっぷりつまった(そりゃ収容所で貴重な自分の人生を8年も棒に振ったと思えば怒るのも当然ですが、これでは被告が検察を兼ねるようなもので冷静で客観的な判断は厳しいものがあります。)告発作品です。この2作品を読み比べたら、なんでジヴァゴがダメなのにイヴァン・デニーソヴィチはOKなのか、正直理解に苦しみます。もっとも、この『ドクトル・ジヴァゴ』事件は、作家同盟が全面的に表に出て行った弾圧キャンペーンとの話もあります。しかし、イデオロギー国家ソ連がイデオロギー問題に関して政治家の関与なしにイデオロギー問題を扱うことがあるのかどうか疑問ですが。

 この処置は、フルシチョフの、一貫性がないといいますか、思い付きをそのまま政策に反映してしまい、結果的にやることが支離滅裂という彼の軽はずみさがもろに現れた一件です。はっきりしているのはフルシチョフは判断を下した時点でこの2作品を読んだことはまず考えられず(政治家にとってはキューバ危機などの問題の方がはるかに大事ですからこれはいいと思います。ただ、フルシチョフは失脚後時ができたのでドクトル・ジヴァゴを読んで、「後に『ドクトル・ジヴァゴ』を読んだが、何の問題もなかった。人任せにしておいて出版されず、スキャンダルになったのは遺憾だ」と書きましたが、遅すぎますし、イデオロギーの点を考えると、本当にソ連体制の不備を隠したければ全く問題ない、と言い切ってしまうのもまた問題かもしれません。)、内容を把握せず決定を下したということです。このへんも、フルシチョフによるスターリン批判が、実際に言論の自由や政治的な平等を進めようとしてやったものというより、かつての上司のスターリンを叩くことでの自身の人気取りの感が強いと僕が思う根拠です。

 ところがこの時代、フルシチョフの後の失脚の最大の原因と僕は考えるのですが、中ソ対立が起こります。第二次世界大戦のうち、太平洋で行なわれた戦いは、日清戦争の後急速に列強に分割された中国市場、ことに満州の権益をめぐって勃発したものです。この地域に対する軍主導の日本の強引な進出がアメリカの不興を買い、日本と戦う国民党の蒋介石をアメリカが支援し、この代理戦争が日米本体同士の激突となりました。

 さて、第二次大戦後、蒋介石を支援したアメリカは、彼の力で中国が統一され、やっとこれから市場参入ができると思った矢先に、毛沢東率いる中国共産党が中国を統一し、中国市場が赤化してしまったのです。ユーラシア大陸に封じ込められたソ連にとって、今も昔も大市場かつ資源地帯の中国との同盟は、何物にも変えがたいつながりであったはずです。

 ところが、中国は「百花斉放、百家争鳴」をスローガンにした言論の自由を認めると、共産党に対する批判が噴出しましたので、たちまち抑圧策をとり、人民公社制を採用し、核兵器開発をカモフラージュするための「大躍進運動」を展開し、軍事的にもソ連潜水艦のための連絡通信局の設置を拒否して、ソ連とは異なる独自の道を歩みはじめました。しかし、この時点では、中国はアメリカの中東政策に対する牽制球として、1958年8月台湾の金門、馬祖島への砲撃を加え、緊張を高めました。ただし、中国はポーランドでアメリカと事態打開のための会談中できちんと和戦両方をかけておりました。

 フルシチョフは、この砲撃を支持し、ソ連共産党は、中国がアメリカ、日本の攻撃を受けた場合はソ連はこれを黙視しないとの書簡を出し、さらにグロムイコ外相は、アメリカが中国を攻撃した場合は、ソ連は中国を支援する声明を送ります。こうしてソ連は中国を核の傘の下に置くことを明言しました。

 しかし、フルシチョフは中東での緊張を少しでも和らげようとしたのでしょう、アメリカとの接触を求め、1958年11月全ての連合国が、ドイツにおける軍の駐留権を保持しながら、ドイツとの平和条約を調印することを提案し、それが6ヶ月以内になされなければ、ソ連は東ドイツと単独講和すると発表したのです。もしこれが現実となれば、西ベルリンは東ドイツ中で孤立し、これを救うためには西側は東ドイツと交渉せねばならなくなります。

 フルシチョフがアメリカとの交渉を望んでいたために、この強烈な態度にでたわけで、1959年1月に、女房役のミコヤンが訪米し、フルシチョフの真意をアイゼンハウアーに伝えます。

 同じ月には臨時共産党大第21回大会が開かれ、社会主義の全面的かつ最終的勝利が宣言ます。工業・農業のみならず、国民生活の全分野で社会主義が確立し、資本主義でへの交代はありえない、レーニンの採択した1919年の社会主義建設の綱領は達成されたとの主張でした。7カ年計画が確定し、この計画の終わる1965年にはソ連は人口一人当たりの生産量でイギリスと西ドイツを抜き、アメリカを追い越すための基礎が出来上がるとフルシチョフはぶち上げます。

 さて、こうしてアメリカとの接触が保てたとフルシチョフが判断した時点で、中国にたいしフルシチョフは東アジアの非核構想を実現すべく、国防新技術協定の残りの義務を破棄し、原爆の見本と原爆生産技術資料の提供を拒否しました。そこで、中国はソ連と仲のいいインドの国境紛争を加速し、ここにソ連と中国の関係は完全に悪化しました。

 フルシチョフはニクソン副大統領をモスクワに招待し、ニクソンの帰国直前フルシチョフは、アイゼンハウアー米大統領からの訪米招待状を手渡されます。1959年9月15日、家族とともに、ソ連の指導者として初めてフルシチョフはアメリカを訪れ、アイゼンハウアー米大統領とキャンプ・デーヴィドで会談を行い、軍縮についての提案を行ないますが、失敗します。そこで、帰国途中、フルシチョフは北京に立ち寄って毛沢東と会談を持ちますが、もはや後の祭りで、共同声明も何もなく、手ぶらで帰国しました。

 しかし、ここで何とかアメリカと和解しようと、核兵器の発達を踏まえて、フルシチョフはソ連軍の兵力を1961年9月までに、1/3に縮小するとの発表をします。こうして米ソは歩み寄り、懸案だった四国首脳会談がパリで開かれることとなりました。

 ところが、5月1日、ウラルのスウェドロフスク上空高度2万メートルまで飛来したアメリカ軍偵察機、U-2がソ連の対空ミサイルにより撃墜されました。通常のジェット機の3倍以上という高高度を飛行するこのU-2ですが、これまでこのような高高度を飛行する偵察機を迎撃できる迎撃機を、ソ連は備えていませんでしたが、とうとうミサイルで打ち落とすことに成功したのです。

 ちなみに、このような高高度を飛ぶと、宇宙線がかなり強いので、乗組員を守るために、宇宙線を吸収するため飛行機にウランガラス(劣化ウランを混ぜて作ったガラス。きれいな緑色です。)が薄く塗布してあります。規定によると、U-2の任務失敗の際は、操縦士は機体を爆破し、服毒自殺せねばらならかったらしいのですが、パワーズ飛行士はパラシュートで脱出し、ソ連で自分の任務について語ったとのことです。







高ステルス性をもつアメリカの高性能偵察機
MB-U2



 これに対してフルシチョフは怒り、パリでアメリカ代表を散々非難します。アイゼンハウアー米大統領は飛行中止を約束しましたが、フルシチョフが四国首脳会談で公式の確認を求めると、アメリカ代表は退席します。さらに中国は1960年4月、「レーニン主義万歳」なる三つの論文を発表し、中ソ対立が表面化します。26カ国の共産党秘密会議が開かれますが、ソ連と中国は激突し、7月、ソ連は中国から技術援助の専門家を全員引き上げさせました。

 外交に関して八方ふさがりのフルシチョフはいらだったのでしょうか、ニューヨークの国連総会で演説し、西側を激しく攻撃し、はいていた靴をぬいで、その靴で国連の演壇をたたくという過激な行動にでました。歴史上、ソ連の、ロシアの国威絶頂の瞬間と言うべきか、いや、ロシアらしさ爆発と言うところでしょう…。







自分の靴で国連の演壇を叩く
フルシチョフ




 こうしてフルシチョフ外交は、同盟国中国を切っておきながらアメリカとの歩みよりもできないという最悪の結果に終わったのです。あるいは中国の伝統的な外交政策、「夷をもって夷を制す」政策に見事にはめられたのかもしれませんが…。


〜 6. キューバ革命ーアメリカの中庭に共産国誕生 〜

 ただし、キューバの取り込みには成功します。独立戦争完全終結間際の1823年に発表された例のモンロー・ドクトリンですが、これはアメリカがヨーロッパとは別の道を歩もうということですが、裏を返せば西半球と東半球を分断し、西半球の国々、中南米・カリブ海はわが手におさめようということでありました。おりもおり、スペイン・ポルトガルの力が弱まった時期であり、アメリカの援助のもと、南米諸国の大半は1810ー1825年の間に独立を果たしました。

 さて、このようにして手に入れた中南米諸国をアメリカは殆ど自分の裏庭のように見なし、極めて強権的な介入を(アジェンデ政権転覆、グラナダ・パナマ侵攻、などなど、現在でも)繰り返しましたが、第二次大戦後は共産主義の浸透を防ぐため、1947年、リオデジャネイロで開かれた米州会議でリオ条約を結び、ブラジルおよびその他のいくつかの南米諸国にアメリカの軍事基地を建設し、自国の軍事ブロックの一つとしました。

 さて、キューバは、当時の他の南米諸国と同様、親米独裁者バチスタの支配下にありました。そのキューバでの革命のそもそもの起こりは、1953年7月26日、キューバ島オリエンテ州サンチアゴ郊外のキューバ第二の大兵営モンカダ兵営にたいし、ハバナ大学生の一団が行なった襲撃がはじまりでした。結局これは失敗し、フィデル=カストロ、その弟ラウル=カスロトはその場での脱走に成功したもの、数日後に捕まり、禁固15年を宣言されます。

 しかし、政治犯と国外追放者の退社を要求する運動が広がり、これが成功して、カストロはピノス島の監獄から釈放されました。さて、カストロですが、武力によるほかバチスタ政権を倒す方法はないと考え、メキシコに渡り、武装蜂起の準備を始めます。そして1956年11月25日、カストロは総勢82名とともに、ヨット「グランマ」号に乗り、メキシコからキューバ島へ上陸、シエラ・マエストロ山中に入りました。このメキシコから山中までの潜入で生き残ったのはわずか22名、山頂までたどり着いたのは12人でした。

 1956年はそれぞれ一丁ずつの小銃と10包みの実弾を持った12人だけで山頂でクリスマスを過ごし、そこからバチスタのカストロ討伐軍と熾烈な戦闘を続けつつ仲間を増やし、1958年3月、キューバ東部の解放区から、「7月26日運動の人民に告げる宣言」を放送した後バチスタの軍と雌雄を決すべく下山し総攻撃を開始し、1959年1月1日、バチスタは飛行機で一族とともにドミニカに逃れました。

 こうして親米バチスタ政権を倒し、実権を握ったカストロはすぐにアメリカを訪問し、関係改善に努めますが、アメリカに冷たくあしらわれます。そこで、ソ連の工作員がカストロと接触し、お膳立てを整えた上で、1960キューバを訪問し、貿易協定を締結年2月、ミコヤンがし、砂糖を買い付けて援助を開始しました。







フィデル・カストロ
Fidel Castro
1927−

キューバ首相




 アメリカの中庭カリブ海に、いきなりソ連の息のかかった国が出現した事態に、アメリカは驚き、アイゼンハウアー大統領がカストロ打倒を目指すCIAの努力を承認します。そして1961年1月、ケネディが大統領になると、キューバ侵攻計画を継承します。カストロは4月16日、社会主義宣言をしましたが、その翌日、アメリカに支援され、アメリカ国内で訓練を受けた反カストロ派、自由キューバの反乱兵士が、ピッグス・ベイから侵攻しますが、実行直前でケネディが、反カストロ派を支援するはずだったアメリカ空軍の出動を見合わせたため、この侵攻はものの見事に失敗します。

 ピッグス・ベイ侵攻作戦失敗後、キューバはソ連の援助を受けるようになります。こうして、カリブ海のど真ん中に、社会主義国が誕生すると言う、譬えるなら、ポーランドがいきなり資本主義化したような、とんでもない事態をアメリカは迎えてしまったのです。


  〜 7. コンゴ動乱ー冷戦アフリカへ飛び火 〜

 1960年、ベルギーの支配するコンゴ(現コンゴ民主共和国)が独立し、コンゴ共和国が成立しました。探検家サー=ヘンリー=スタンレーによって発見され、ベルギー国王に献上されたこのコンゴですが、このコンゴのカタンガ州(現シャバ州)は、金・銀・銅・コバルト・カドミウム・マンガン・ロケット鋼材用のタンタル・ウラン・ダイヤモンドが産出するという、とてつもない資源産出地帯だったのです。

 というわけで、コンゴは国王の私領からベルギーの植民地になった後も、この地域へのベルギーの管理は厳重を極めておりました。しかし、このコンゴにも第二次世界大戦後のヨーロッパ諸国の弱体化により、民族主義の目覚めが起こりまして、ソ連で教育を受け、「コンゴ国民運動」の創立者でバテキラ族出身のパトリス=ルムンバ(例の、ロシアのルムンバ名称民族友好大学、現ロシア諸民族友好大学はこの人の名前をとってつけられました)、コンゴの最大種族バコンゴ族を中心とする政党アバコの党首ジョゼフ=カサブブなどの指導者が現れはじめていました。

 そして1958年、隣国の、フランス領コンゴでの自治政府宣言に影響され、1959年レオポルドヴィル(現キンシャサ)でバコンゴ族を中心とする暴動が起こると1960年1月、ベルギー政府はたったの5ヶ月の準備期間で独立を与えることを決定しました。政情不安は新制コンゴに丸投げと言うことでした。

 さて、1960年6月30日、コンゴ共和国独立記念式典が開かれ、ベルギー国王レオポルド1世は、コンゴは自治に未経験である、部族間抗争が激しい、資源に目をつけた外国勢力が介入し易い、との言葉を式典の祝辞としたわけですが、大統領はカサブブ、首相はルムンバという陣容でした。ところが、ルムンバ首相がコンゴ公安隊をコンゴ軍に再編成し、コンゴ軍の将校及び司令官をベルギー人にすると兵士の反乱が勃発します。そのすきに、コンゴの地下資源に関するする権益をあくまで守ろうと言うベルギー資本の後ろ盾で、経済界から政界入りしたモイス・ツォンベが7月11日にカタンガ州の分離独立を宣言しました。するとほぼ同日、居留民保護の名目でコンゴにベルギー軍が侵入したのです。

 ルムンバ首相はベルギー軍を追っ払ってもらうよう国連に要請、国連軍がコンゴ入りしました。ベルギー軍は確かにコンゴから撤退を始めましたが、カタンガ州に終結してしまい、さらにルムンバ首相の強い要請を無視して国連軍はカタンガ州に侵攻しようとはしなかったのです。ここでルムンバはソ連に援助を要請、ソ連は1960年8月に29機のイリューシン輸送機と100台の軍事トラックを提供、200人のソ連人技師を派遣しました。

 ここでソ連の介入にアメリカも黙っているわけには行かないとアメリカはカサブブおよびコンゴ軍司令官モブツを支援し、国連総会はソ連やガーナの反対を押し切り、カサブブを国連代表と認めました。ルムンバの旗色は悪くなり、故郷スタンレービルに帰って再起を図ろうとした際、モブツのクーデターに会い、捕らえられました。モブツはカタンガ州の支配者ツォンベにルムンバを送り、ルムンバは殺害されました。結局コンゴ情勢は、国連がツォンベを亡命させることに成功し、一応の決着を見せます。

 しかし、ソ連は、このコンゴの周辺国をつうじて、タンザニアのウジャマー社会主義の育成、あるいは1961年から本格化した、マルクス・レーニン主義を掲げるアンゴラ(特にアンゴラは、この地から多くの奴隷がキューバに送られたと言う関係もあり、「祖先の地」防衛のため、ソ連の援助とともにキューバから多くの兵士が送られました)・モザンビークの独立運動、独立後は政府軍に支援を与えるなど、旧植民地を支援すると言う形で共産主義を浸透させていくというやり方をアフリカでも続けていくことになります。



     ーーーこのページの主要参考文献ーーー

   ・『物語 アメリカの歴史』
    猿谷 要 著
    中央公論社

   
・『ソ連共産党書記長』
    木村明生 著
    講談社現代新書


   
・『世界の歴史 16』
    松本重治 著
    中公文庫


   
・『パレスチナ紛争史』
    横田勇人 著
    集英社新書

   ・『ロシア史 3』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
    山川出版社

   ・『新書アフリカ史』 
    宮本正興+松田泰二=編
    講談社現代新書

   ・『パステルナーク』 
    前木祥子 著
    清水書院


   ・『戦場の人間学』 
    柘植久慶 著
    祥伝社


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