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〜 6. ブレジネフ外政・アフリカ編ー内戦介入 〜
コンゴでは、肩入れしたルムンバが殺害され、一端介入に失敗したのは、『フルシチョフの時代』で述べたとおりですが、1970年、コンゴ人民共和国成立 に成功し、アフリカに共産系の国家を誕生させることに成功しました。さらにソ連が目をつけたのはポルトガル領アンゴラとモザンビークです。第二次世界大戦
がおわってもアントニオ・サラザールによるファシズム体制の残ったポルトガルでは当然過酷な植民地支配が続いておりましたが、1961年、とうとうアンゴラの首都ルアンダで蜂起がおこり、独立運動が起こります。
解放戦線のゲリラとポルトガル正規軍との間で戦闘が続きましたが、1974年、ポルトガル本国でクーデターが発生、サラザールの後継者カエターノが追放され、ポルトガル本国は全ポルトガル植民地にたいし独立を認めます。アンゴラ・モザンビークのゲリラは政権を掌握し、マルクス・レーニン主義を掲げまし
た。
ところが、これに介入してきたのがイギリスをバックにもつ南アフリカ共和国です。人種隔離政策を掲げ、人種差別を法律で公認していたこの白人国家は、ア
フリカにおける西側世界の前哨部隊を自認し、実際にその役割を果たすべくイギリスやアメリカの援助を受け、アフリカにおけるローデシアの白人右派勢力モザ ンビーク抵抗戦線(RENAMO)のパトロンとなり、少年を誘拐し洗脳して兵士に仕立て上げ、この少年兵らに学校や病院を破壊させ、教員や看護婦を処刑さ
せ、収穫物に火をつけて回らせるなど、モザンビークにゲリラ攻撃を仕掛けます。
また、南アフリカ共和国の植民地ナミビアと国境を接するアンゴラに対し、南アフリカ共和国は独立運動の波及を恐れ、ナミビアの軍事基地から直接アンゴラ
に対する軍事侵攻を開始しました。これらの状況からアンゴラ南部にはアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)が組織され、支配地域で恐怖政治を行ないます。
アメリカはアフリカの共産主義を追い払おうとUNITAを公然と支持し、アンゴラ政府軍にはソ連・キューバが支援しました。ソ連は物資を援助し、キュー
バは、かつてアンゴラからキューバへ大量の奴隷が移送された関係から、「祖先の地」防衛のために多くのキューバ兵を送り込んだのです。また、ソ連もキュー バ人を先頭に立てることで、アメリカ、イギリスなどの白人国家よりもより優位に勢力を浸透させることに成功します。
さらに冷戦はエチオピアにまで飛び火します。もともとエチオピアはゴンダールを首都とするキリスト教王国が続いていました。ところが、18世紀から19 世紀にかけて、ショア、ゴジャム、ティグレといった各地の豪族(ラス)の力が増し、群集割拠の「諸公候時代(ザマナ・マサフェン)」が訪れます。やがてタ
ナ湖周辺の豪族だったカッサが各地の豪族を平定し、テオドロス2世として即位します。テオドロス2世は西洋式の常備軍設立、奴隷制廃止、税制改革などの近 代化をはかりますが、イギリスと対立し、セポイ(イギリスのインド人傭兵隊)中心のイギリス軍と「マグダラの戦い」で大敗し、テオドロス2世は自殺しま す。
その後もエチオピア王国は続き、スーダンのイスラム集団マフディー国家と対立しつつもショアの藩主メネリクが皇帝メネリク2世に即位し、首都アジスアベ バ(新しい花、の意)を建設、銀行制度・鉄道敷設・道路建設などを行い、軍の徹底的な近代化を図ります。その結果エチオピア軍は9万を数え、全部隊がライ フル、速射機関銃、大砲などを備えるというアフリカ随一の戦闘力をほこるようになりました。この軍事力を持ってメネリク2世はイタリアの保護領化を断固拒 否、イタリアは「アドワの戦い」で1万7千のイタリア軍の4割を失って壊滅、「ハンニバル以来がアフリカが勝ち取った最大の軍事的勝利」と呼ばれます。
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ハイレ・セラシエ1世
Haile Selassie T
1892-1975
エチオピア最後の皇帝
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メネリク2世の死後、その娘が女王となり、ラス、タファリらの摂政役となります。タファリは1934年に即位し、ハイレ・セラシエ1世となりました。ハイレ・セラシエ1世は、ムッソリーニのイタリアにエチオピアが占領され、イギリスの亡命した1936-1941年を除き開明的君主として君臨しますが、農地改革をなおざりにしたのがたたって1973年から1974年にかけて起こった旱魃で国民の不満が爆発、1974年4月、アジスアベバで労働者、市民、学 生がデモを起こし、これに軍が同調して若手将校団が握り、ハイレ・セラシエ1世を退位させます。
将校団は社会主義を標榜し、主要産業の国有化・農地解放などを行い、1977年には強硬派のメンギスツ・ハイレ・マリアムが国家元首となり、こうしてエチオピアにも共産主義の影響の強い国家が誕生したのです。しかし、国内反対派にはやはりアメリカの援助が伸び、各地で反乱の種が爆発します。
ソマリアの主要民族ソマリ族がエチオピアのオガデン州にも住んでいましたが、このオガデン州もソマリアに併合しようとするパン・ソマリ主義がありました
が、アメリカがこれを支援、1977年8月にはソマリアと紛争が起こり、11月にはオガデン州分離の危機に見舞われ、エチオピアは内患を断つべく1978年2月、ソマリアと開戦します。「アフリカの角」戦争の始まりでした。
アメリカの援助を受けるソマリアに対抗すべく、エチオピアは、1978年11月、友好協力条約を結んでソ連の傘下に入り、ソ連・キューバの軍事支援をあおぎ、マルクス・レーニン主義を推進します。またしても米ソ代理戦争がはじまったのでした。
〜 7. ブレジネフ外政・中東編ー湾岸諸国 〜
チェコスロヴァキアをトンネルとしてソ連製の武器を横流し、その独立を支援して外交関係を結び、イスラエルと友好的な関係を結ぶ一方、イラクやシリアと
同盟していたソ連ですが、第三次中東戦争「六日間戦争」が発生します。ここでどちらの肩を持つかせまられたソ連ですが、やはり石油資源を重視したのと、アメリカがイスラエルを支援したのとで、イスラエルと国交を断絶、アラブ寄りの姿勢をとります。
さて、事の起こりは水争いに始まります。1954年以降、イスラエルはネゲブ砂漠での灌漑用にヨルダン川の水をくみ上げようとしていましたが、アラブ諸
国はこれに反対し、1964年1月、アラブ首脳会議で同様の計画を推進し、1964年11月、シリアはヨルダン川上流の支流であるハスバニ川を分岐させ、
ヨルダンに送水する工事に着手します。これは、ハスバニ川はイスラエルの重要な水源ガラリヤ湖に流れ込みますから、これはイスラエルの水不足を招く恐れがありました。
そこで、どうもイスラエルは極端といいますか、ナチス・ドイツを筆頭として、度々民族ごと消し去ろうとされた悲惨な歴史がそうさせるのか、ともかくいつ
もの如く過激な行動に出ます。イスラエルはシリア国境沿いに配備した戦車で工事現場に砲撃をかけ、大型工事用機械を破壊したのです。シリアは工事現場を遠 方に移しますが、イスラエルの再度の攻撃で断念、更には1967年、イスラエル軍がシリアのミグ戦闘機を6機撃墜し、緊張が高まります。
すると、エジプトはシナイ半島に大規模な戦車部隊を派遣し、シリアもゴラン高原に軍を移動させ、イスラエルは不倶戴天の敵に北と南から挟み撃ちにされて
しまったのです。さらにナセルはシナイ半島の国境沿いに位置する国連緊急軍にガザ及びシャルム・エル・シェイフへ移動するよう要求します。ウ・タント国連 事務総長はエジプトが要求を取り下げるか、それとも国連緊急軍が全面撤退してあとの結果には自分達が責任を持つかとこたえます。ナセルは全面撤退を要求、
ガザにはアラファトのパレスチナ解放軍が布陣、ナセルはチラン海峡を封鎖、イスラエルにとっての唯一のアジア・アフリカへの出口がふさがれてしまったので す。
さて、ここでイスラエルでは激論が戦わされます。英仏はもはや昔日の力を失い、この地域に介入してくる力はありません。アメリカの力を期待しようにも、
ベトナム情勢に本格的に介入を決めたジョンソン大統領は、第六艦隊を使ってエジプトのチラン海峡封鎖を解除するとは言いましたが、中東への介入を拒否、ソ 連もベトナム戦争を支援していましたが、アメリカのような本格介入ではなく、シリアやエジプトには武器援助を行なっています。今回アラブ諸国が連携する可
能性は高く、イスラエル単独での開戦はリスクが大きすぎるとの意見がありました。
しかし、当時参謀総長だったイツハク・ラビン(のちのイスラエル首相)は徹底抗戦を主張、イスラエルの軍事力を見せ付けねば大国の関心を得られず、見捨
てられ、アラブの海で孤立死するのみと主張、ジョンソン大統領の介入拒否がきっかけで開戦を決定します。
1967年6月5日、ミラージュからなるイスラエル空軍は防空にわずか12機の戦闘機を残し、残りの全戦闘機を持ってエジプト、シリア、ヨルダン、イラ クの四カ国の航空基地を空襲、徹底的に破壊、とくにエジプトなどはミグを含む航空機300機を失うなど、甚大な被害を蒙ります。なにがなし、真珠湾を思い 出させる話ですが、この状態ではやむをえないかもしれません…。ともかく、シリア、ヨルダン、イラクは反撃を開始しますが、緒戦で圧倒的に立ったイスラエルの敵ではなく、イスラエル軍が破竹の進撃を続けます。
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第三次中東戦争
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開戦三日目にはイスラエルの空挺団がエルサレム市内に突入、「嘆きの壁」に20年ぶりに足を踏み入れます。結局四日間で総崩れとなったエジプトとヨルダ ンは停戦を受け入れ、戦略要地ゴラン高原を攻略されたシリアも六日後には停戦を受け入れます。ヨルダン川西岸、ゴラン高原、シナイ半島を手に入れたイスラ
エルの圧勝でした。
余談ですが、ソ連のКГБはイスラエルの先制攻撃の可能性を知りつつも、あえて同盟国のエジプト・シリアにその情報を伝えなかったという説もあります。
ソ連の外交政策の要、コントロールド・テンション(制御された緊張)を行なうため、ということですが、どうでしょうか。
1970年、52歳の若さで心臓発作でナセルが亡くなり、代ってスーダン系エジプト人アンワール・サダトがエジプト大統領になります。ところが、サダト
はソ連嫌いでして大統領に就任後まもなくソ連派グループによる反サダトのクーデターが起こり、サダトはさらにソ連からの脱却を模索します。サダトはイスラ エルからシナイ半島を取り戻すべく、周到な作戦を練りました。ますが、ソ連から来た軍事顧問1万9千人の退去を求め、アメリカの歓心を買う一方、イスラエ ルには占領地シナイ半島からの部分撤退を条件に、イスラエルとの平和条約の締結を呼びかけました。
イスラエルの存在を認めるこの平和条約締結の誘いは、イスラエル政府にとってはのどから手が出るほどありがたい誘いだったに違いありません。こうしてイ
スラエル政府筋が和平実現に夢中になっているその隙を突き、1973年10月6日、エジプトとシリアはヨム・キプール(ユダヤ教の安息日の中でもっとも神 聖な日)に戦端を開きます。エジプト軍はスエズ運河を越えてシナイ半島になだれ込み、シリア軍はゴラン高原に殺到します。こうして第四次中東戦争が始まりました。
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第四次中東戦争
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完全に不意を突かれたイスラエルは緒戦で苦戦、女性首相のゴルダ・メイアは起死回生を狙った核攻撃の検討を行いますが、苦戦から立ち直り、この件は立ち消えになったといいます。イスラエルは徐々に苦境から立ち直り、まずは北部戦線に主力を投入、シリア軍を停戦ラインまで押し戻すと、のちのイスラエル首
相、タカ派の重鎮アリエル・シャロン率いる戦車隊が敵陣を突破してスエズ運河を越えてエジプト本土とエジプト軍の連絡を遮断、エジプト軍主力をシナイ半島で孤立させることに成功します。
この間、ソ連はイスラエルの領土を第三次中東戦争以前の戻すというアラブよりの停戦案を提案し、シリア・エジプトに大量の武器を輸出します。アメリカのニクソン政権はソ連への対抗上、イスラエルへの武器援助とベルリン封鎖時並の空輸を強化し、戦争は中東のベトナム戦争のごとく長期化の様相を見せます。
が、サウジアラビアのファイサル国王は、「アメリカがイスラエルの武器供給を停止しなければサウジアラビアは石油の輸出禁止措置を取る」と警告、OPEC (石油輸出国機構)のペルシャ湾岸6カ国は原油価格を70%もアップし、さらにサウジアラビアは10月21日、アメリカとオランダへの石油の全面禁輸措置を取ります。
ここに石油ショックが発生、最終的に第三次中東戦争開始時の四倍となった石油価格の前に日本の高度経済成長がストップし、アメリカを頼るイスラエルはサウジアラビアの禁輸措置のその日に停戦に合意、10月22日には米ソ提案の停戦呼びかけ決議を、国連安全保障理事会が採択しました。イスラエルと戦っても勝てないと悟ったのか、サダト大統領は1977年電撃的にイスラエルを訪問、なんと単独和平と結びます。この単独講和が最大の原因と思うのですが、サダトは暗殺されてしまいました。結局エジプトはアラブ諸国と断交され、アラブから孤立しソ連から離れ対米協調・経済開放路線を歩みます。シリアもレバノン内戦
の後遺症で足を取られぎみ、の状況の中で、次なるアラブ世界の雄として浮かび上がったのがフセイン政権下、強権で国内を安定させ、ソ連をバックにもつイラクです。
イランと並ぶ中東随一の軍事大国エジプトからソ連を追い払い、自国の勢力化に引き込むのに成功したばかりか、エジプトの戦線離脱でアラブ側はイスラエル側に本格的な戦争を吹きかけることが不可能となり、この地域の安定化に成功するという、という大ホームランを放ったアメリカのカーター政権ですが、ここで
とんでもない失敗が待ち受けていました、イラン革命です。民族主義者モサデクによる改革「モサデク革命」(アメリカのコンサルタント会社に作ってもらった 「第一次49年計画」で、モサデクは大土地所有制解体を行なおうとしたのです。やはり、土地改革に手をつける政治家の運命を彼もたどったのです)をCIA
の手引きもあってつぶし、パーレピ国王が実権を握っておりました。
OPECの石油価格自主決定戦略の成功で湾岸諸国には大量のオイルマネーが流れこみましたが、その豊富な資金を基に、イランは1973年、第一次49年計画の再編「白色革命」を行い、イランの軍事化と近代化につきすすみます。これには、1969年のニクソン・ドクトリンもありまして、これは平たく言え ば武器はバンバン輸出してやるから、アメリカ軍の手を煩わさず自分の国は自分で護れとのお達しです。そこで、パーレピ国王は、イギリス亡き後の湾岸の安全
保障はイランが担う、と大量の武器買い付けに走ったのでした。1972年ニクソンがテヘランを訪問し、イランの軍備に一層拍車がかかり、これに対抗してソ連は1972年、イラクのフセイン大統領とモスクワで15年の友好協力条約を結びました。
ところが近代化ですが、この改革はやはり農地改革を進めておりましたから、大土地所有者、さらにはこの頃イランでは極めて力を持っていた大土地所有者で
あるイスラム寺院の怒りまで買ってしまいます。男女平等の流れから来る婦人参政権、国の教育機関による文盲退治など、イスラム聖職者の精神を逆なでし、モ スクでの寺子屋教育をやっていたムッラーを失業させるなど、この革命でパーレピ国王は単なる保守派のみならずイスラム聖職者の反発まで買ってしまったのです。
さらに、急激なインフラストラクチャーとオイルマネー流入による猛烈なインフレは、オイルマネーの恩恵に浴すことのできないイランのほとんどの国民を直撃しました。こうして1964年、国王によりイランから追放されていたシーア派イスラム教徒の最高指導者のホメイニ師に支持が集まり、ホメイニ師のもとに
イラン共産党のツデー党、民族派共産主義の国民戦線などが集まり始めていました。イランには各地で亡命地イラクのシーア派の聖地ナジャフからのホメイニ師の呼びかけによる暴動が発生、パーレピ国王は戒厳令を発し、イラクに圧力をかけて1978年ホメイニ師をイラクから追放しますが、こんどはフランスに亡命 したホメイニ師の言動が西欧のメディアから世界に広まる羽目になりました。
戒厳令を無視したデモがイラン各地で発生、1978年12月11日、ホメイニ師の呼びかけに応じた反王制大集会が開かれ、100万人近くが終結、鎮圧に出動するはずの軍隊も命令を無視して駐屯地で息を潜め、この状態を見たアメリカ大統領カーターもパーレピ国王への支援打ち切りを決定します。進退窮まったパーレピ国王はバカンスの名目で国外脱出し、イランの王制は倒れました。
さて、ホメイニ師はイスラム法学者による統治を宣言、1979年憲法改正により、イスラム共和国の全ての任務と責任を負うのはイスラム聖職者であるイラ
ン・イスラム共和国が成立、アメリカを「大悪魔」とよび、宗教を否定する共産主義ソ連も当然認めがたいという、石油資源を押さえる、米ソに大両陣営をとも に敵視する政権がイランに誕生しました。11月4日、パーレピ国王のアメリカでの入院を発端とするアメリカ大使館占拠事件が発生、CIAは大使館員の解放
に失敗、解決に444日を要し、このショックでアメリカのカーター政権は退陣します。中東情勢は一体どちらへ転ぶのか、余談を許さぬ状態が続きます。
〜 8. アフガニスタン侵攻ー西と東の最終決戦 〜
冷戦時代のソ連の失敗の中でも最大級のもののひとつがこのアフガニスタン侵攻でしょう。この侵攻で大量にアフガニスタンに入ったソ連軍は現代文明のカギを握る油田地帯たる湾岸地域に直接のプレッシャーを与え、アメリカの猛反撃を食らい、西側世界と東側世界の総力戦に引きずり込まれてしまいます。
如何に打つ手がなかったとはいえ、完全にツーク・ツワンクに引っかかったといえましょう。
しかも、中央アジア諸国はそうそう簡単に服属できるような地域ではありません。帝政ロシア時代にヒヴァ・ボハラ・コーカンド汗国を服属し、トルクメニスタンのテケ族を従わせるのにどれほど失敗を繰り返しか、どれほどの時間と資源(人も含めて)が必要だったかをこのHPの前のページでもかなり丁寧に説明してまいりましたが、そういったたかだか100年前の貴重な教訓をソ連は完全に忘れ去っていたようです。アフガニスタンにしても、第一次、第二次にわたる対イギリス戦で二度とも勝利を収めた、非常に強力な民族パターン族の住まう地です。つくづく、人とは忘れる生き物なのでしょう。
余談ですが、したがって強力な中央アジア諸国の反抗を恐れ、奇妙な形に分断して5つの国を作ったスターリンはさすがに非常に慎重、しかも同じ轍は踏まない周到な政治家です。
さて、三度にわたるイギリスとの戦いで1919年に独立を勝ち取った、アフガニスタンのドゥラニッー王朝ですが、第二次大戦後、非同盟中立をかかげておりました。しかし、1949年パキスタン空軍機の国境付近における空爆でパキスタンと一時断交し、パキスタンのカラチ港からトラック輸送でアフガニスタンに物資が流れるというルートが遮断され、ソ連に援助を仰がざるを得なくなりました。
1950年、ソ連とアフガニスタン両国は経済条約を締結、ソ連の石油、繊維、工業製品とアフガニスタンの羊毛、綿布が交換されるというバーター貿易、事実上の援助が開始されます。こうして灌漑施設の整備なども始まり、この地域の耕地がチンギス・ハーンの破壊からやっと復興することになったのです。ブレジ
ネフ政権も援助を強化し、ヒンドゥークシュ山脈のサラン峠にトンネルを開通させると、アフガニスタンには親ソビエトグループが誕生し始めます。
国王ザヒル・シャーの改革により1964年新憲法が制定され、三権分立を謳い、二院制の議会が誕生し、1965年、下院議員214人の総選挙が行なわれ ました。1965年、アフガニスタン初のマルクス・レーニン主義政党、人民民主党が創立され、議会に議員を4人送り込むことに成功します。党のメンバーに は、のちのアフガニスタンの実力者ヌル・ムハンマド・タラキやバブラク・カルマルなどもこの中に入っていました。
しかし、例によって例の如く、国王の急進的過ぎる改革は反発を呼び、1973年、ザヒル・シャーが目の治療のためイタリアに渡航中、親ソ連派軍人がクー デターを起こし、王制は終了、共和制へと移行します。大統領はクーデターの首謀者ムハンマド・ダウドです。クーデター翌年の1974年、ダウドはモスクワ を訪問し、ブレジネフから軍事・経済援助をもとめました。ソ連は7カ年計画への援助として、6億ドルの支援を行なうことを約束、アフガニスタンも親ソ化したかに見えました。
ところが、ダウドは1975年、ソ連の軍事顧問を解雇、イランと水利をめぐる国境の河川問題にけりをつけ、イランから20億ドルもの経済援助を得ます。 パキスタンとの関係も良好化し、アラブ産油国とも関係を保ち、さらには1978年ワシントンに訪問する計画までたてました。クーデターで活躍した新ソ連派将校を地方の勤務地に飛ばし、共産主義者を閣僚から外すなど、ソ連離れを加速する一方、1977年、共和国憲法を制定し、1975年自らが党首となって作った「国民革命党」のみが政治活動ができるという一党独裁制を固めました。
ところが、大統領の強権は目立つが、失業率は増え、インフレ率も上昇するという状況の中、不満は高まり、人民民主党の共産主義者のハルク派とパルチャム派はダウド政権打倒を掲げ、それに軍、知識人、学生など民各派が終結します。おりしも1978年、パルチャム派の理論的指導者ミール・アクバル・ハイバルが何物かに暗殺される事件がおこり、その死を痛む集会で人民民主党の幹部が演説を行うというので、一万人が終結しました。驚いたダウドは人民民主党員逮捕に乗り出しますが、軍が反乱を起こし、反乱部隊がカブールの宮殿を襲撃、護衛と戦闘が繰り広げられますが、丸一日して宮殿内のダウドとその一族が射殺され
ました。
このクーデターの仕掛け人はハフィズッラー・アミンらの人民民主党幹部で、彼らが軍部に働きかけた結果でした。1978年12月、タラキ議長がモスクワに赴き、ソ連との間に20年間の善隣友好条約を締結し、アフガニスタンはソ連の傘下に入ります。さて、権力奪取後の闘争でハルク派が勝利を収め、バブラ
ク・カルマルが追い出され、ヌル・ムハンマド・タラキが権力を握り、土地の国有化、土地を担保の高利貸しの禁止、女性の最低結婚年齢の決定、男女完全平等教育実施、宗教の自由の制限、国旗の色をイスラムの聖なる色の緑から、共産主義の象徴の赤に変えるなど、イスラム社会のアフガニスタンにとって極めて急進的な政策を取ります。
やはり急進的な改革にはぶり返しがつき物で、1979年から各地で暴動・反乱が発生、当時外相だったアミンは、アメリカで博士号を取って帰国したという経歴も効いたのでしょうか、アメリカに支援を打診します。当時アメリカはイランのアメリカ大使館員人質事件で手一杯ということで、アミンの援助は行ないませんでしたが、これはまずいということで、タラキはソ連とともにアミンを排除しようとしますが、かえって先手を打たれて9月に身柄を拘束され、刑務所で抹殺されます。
しかし、ソ連のアフガニスタンに対する、軍事援助125億ドル、さらに水力発電所建設、道路建設、各種工場の近代化、灌漑施設導入などの経済援助は30 億ドル、これに加えてソ連国内での技術者養成など、凄まじいまでの額が投入され、アフガニスタンはこの時点で既にソ連最大の援助国となっておりました。ここまで足を突っ込んだアフガニスタンを失うことはできないと、ソ連首脳部はアフガニスタンの軍事介入を決定します。
ある話では、このとき、短期決戦が可能との考えで介入を主張したのがアンドロポフКГБ議長、国防相のウスチノフ、外相のグロムイコらも賛成でした。ブレジネフは病床に臥せり、執務は他に任せており、駐米大使ドブルイニンやゴルバチョフなども事後に介入を知ったといいます。
また、こういう話も伝わっております。1979年12月8日、ブレジネフは書記長執務室に、グロムイコ外相(政治局員)、アンドロポフКГБ議長(政治局員)、ウスチノフ国防相(政治局員)、スースロフ党書記(外交・イデオロギー担当第二書記、政治局員)を集めました。そこでブレジネフはアミンの親米路線とそれによるアフニスタン失陥について懸念を表明します。
それにかんして、アンドロポフは、反革命勢力がアフガニスタンのソ連隣接地域を占領して新しいイスラム国家をつくるかアメリカ寄りのパキスタンに引き渡すかしようとしていると発言しました。ウスチノフは、アフガニスタン情勢介入にあまり乗り気ではないもの、万一アフガニスタン地域にアメリカの勢力が入り込むと、防空システムのないソ連南部は、アメリカのミサイル配備によりパーシング・ロケットの標的になるだろうと発言しました。また、アフガニスタンの反政府派が、アメリカと組んだアミン政権転覆が成功すれば、ウラン鉱をアメリカに引き渡すと表明している、と発言します。グロムイコは、ソ連軍の介入は、西側の格好の反ソキャンペーンになると消極的反対でした。スースロフは、今アフガニスタンの共産主義勢力を助けないと、他の社会主義国から頼りがいがないと見放されると発言しました。
で、スースロフは、軍事介入よりはカルマル元副首相を担ぎ出すことでの政権奪取が望ましいと発言、ブレジネフはアンドロポフに軍事介入なしの政権奪取は可能か聞きますが、スースロフの子分たるアンドロポフは十分可能と答えます。そこで、ブレジネフは会議をまとめ、二つの方法を提案しました。一つはКГБがアミンを監視下に置き、速やかにカルマルを送り込む。もうひとつは一定規模の部隊を派遣する。二番目の方法に関してはウスチノフに一任する。こうして会議は終了しました。
12月10日、国防相ウスチノフは、参謀総長オガルコフにアフガニスタンへのソ連軍7万5千から8万の派遣を通告します。オガルコフ参謀総長には寝耳に水でして、それだけの軍でアフガニスタンの情勢を安定させることは不可能だと反対、ウスチノフは政治局員に意見する気かと啖呵を切り、話は暗礁に乗り上げます。すると夕刻オガルコフはブレジネフに書記長室に呼び出されました。その場にはグロムイコ、アンドロポフ、ウスチノフがいました。さて、オガルコフはブレジネフに、アフガニスタン派兵の反対の理由を述べるよう言われます。オガルコフはアフガニスタンの諸部族の勇猛さ、きびしい気候や地理的条件をあげ、侵攻の結果による政治的結果にも注意すべきだと発言しました。
ブレジネフは二人を仲裁して、軍事援助を行うかどうかは決定せず、ただし万一に備え部隊の準備を完了させるという妥協案を出しました。12月12日、パキスタン正規軍を投入してカブールを奪う計画がパキスタン軍参謀本部にある、一週間に以内にアミンの反対勢力がアミン打倒を計画しているという情報を得たとのことで、夕食後の午後9時、ブレジネフ、アンドロポフ、グロムイコ、ウスチノフが新たな情勢に対応するとして、アフガニスタン情勢に対して話し合うことになりました。
アンドロポフは、「国の安全保障に責任を負う立場としては、アフガニスタン情勢が我々がコントロールできる範囲の外で展開され始めたと警告しなければならない。アフガニスタンの歴史の発展のために独自に軌道を敷いた方が良い」と発言、派兵を促します。ブレジネフはウスチノフに部隊の準備について尋ねると、ウスチノフはすでに予告指令を口頭で出し、決定が採択されれば最短期間で準備が整うと答えました。グロムイコは、もともとソ連外務省でのアフガニスタン担当が彼ひとりであったこともあり、なにも反対せず、派兵が決定されました。12月13日には参謀本部内に第四十軍展開作戦グループが結成され、同グループのソコロフ国防次官・元帥が責任者に任命、第四十軍の指揮はトハリノフ中将が執ることになりました。
そして未だイランのアメリカ大使館人質事件で手間取るアメリカの隙を着く形で、1979年12月 25日クリスマス、ソ連によるアフガニスタン侵攻が起こったのです。
ソ連空挺団がアフガニスタンの主要空港を占拠、制空権を握ると装甲車両を先頭にアフニスタンへ地上軍が侵入、一週間で6万人のソ連軍がアフガニスタン入りします。ソ連特殊部隊がカーブルの宮殿にいたアミンを襲撃、殺害し、そしてソ連内に潜伏していたカルマルを擁立します。ようやく親ソ政権誕生か、と思われたところですが、カルマルの復活による粛清の発生を恐れた国家公務員、兵士が逃亡、11万のアフガニスタン軍が逃亡により3万に激減、ソ連は国家維持のための非軍人顧問団を1万人以上も派遣、アフガニスタン反政府軍にたいし、ソ連軍が全面に出る羽目になり、1981年までに展開するソ連軍はとうとう10 万人に膨れ上がります。
しかし、結果としてインドとは既に友好国、さらに大産油国イランに打ち込んだ楔のような地理的特性を持つこのアフガニスタに大軍を派遣したソ連のペルシャ湾岸地域に対する威信は最大限にまで高まりました。すでにソ連になびいているイラク・シリアに横腹を突かれ、真北はソ連領、その上東からアフガニスタ
ンににらみを効かされたイランはいくらホメイニでも手も足も出ず、イラン・イラク戦争の泥沼を見せ付けられた湾岸諸国は我も我もとソ連になびきます。
先走っていってしまいますと、もともとソ連と国交を持っていたクウェートのほか、1985年9月、親米反共国のオマーンがソ連と国交樹立、同年11月にはアラブ首長国連邦もソ連と国交樹立、1988年にはカタールも国交樹立、最後に残った親米サウジアラビアもソ連との国交回復のうわさが取りざたされるな
どします。こうしてアフガニスタンに手を出すことで、近代文明の生命線を握る石油、その世界の石油供給地帯である湾岸地域全域に影響力を行使し始めたようとしたソ連は、まさに世界のエネルギーに王手をかけたのです。
チェックをかけられたのですから、当然資本主義陣営のアメリカも死に物狂いの総反撃にかかります。アメリカのあの温厚なカーター大統領すら
STARTIIの批准を行なわぬ方針を固め、モスクワ五輪をボイコットし、さらにアメリカからのソ連への家畜用飼料・穀物の輸出を禁止するという手痛い措置を取ります。さらにカーターは、カーター・ドクトリンを発表、「ペルシャ湾地域の支配を目論む外部勢力のいかなる試みも、アメリカの死活的利益に対する攻撃であり、こうした攻撃に対しては軍事力を含むあらゆる必要な手段によって反撃する」という極めて強弁な声明を発表しました。このドクトリンの具体的な実践として、RDF(緊急展開部隊)を提案します。
これはどういうことかというと、ペルシャ湾岸に一丁有事が発生すれば、アメリカ第七艦隊の指揮する中東艦隊だけではなく、地中海担当のアメリカ第六艦隊、インド洋・太平洋担当のアメリカ第七艦隊もペルシャ湾に終結し、アメリカ本土の戦略予備軍22万5千が空輸で動員されるというもので、極めて巨大な軍事力が終結されるということです。
1980年テヘランアメリカ大使館人質事件で手間取ったカーターが退陣し、アメリカ大統領がレーガンに代ってから、レーガンはソ連を「悪の帝国」と名指
しで非難し、ソ連打倒を最大の政策に掲げます。レーガンはアメリカ軍をより強力に再編成し、「鉄の女」とソ連側から呼ばれた強硬派サッチャー女 史、これまた強硬派と呼ばれた日本の中曽根康弘氏、これら資本主義陣営の中心三ヶ国がソ連を倒すべく足並みをそろえて一気にソ連に軍拡競争・アフガニスタンへの援助攻勢をかけてきたのです。
1980年アメリカ大統領となったレーガンは、パキスタンへ一気に340億ドルの援助を行ないます。さらに、アフガニスタンへの援助を行なっていた国は 当初アメリカ・パキスタン・イラン・サウジアラビアでしたが、ソ連軍の駐留が長引くにつれ、イギリス・フランス・西ドイツ・ベルギー・スウェーデン・オラ
ンダ・デンマーク・ノルウェー・イタリア・エジプト・クウェート・スーダン・カナダ・オーストラリア・韓国・日本に広がり、主要西側諸国全体がアフガニス タンへの援助を行ないます。特にエジプトは武器の提供・兵士の訓練に重点をおいた支援を行い、エジプトでアメリカ軍による訓練を受けた兵士の一人にウサマ・ビン・ラディン氏がいます。
内戦の激化につれ、史上最大規模の難民が発生し、職のない難民たちは食べていくためにゲリラ兵に志願し、戦いが長引けば長引くほどゲリラの兵員も増え、
ゲリラ軍は自らのことをムジャヒディーンと呼び、宗教を否定するソ連共産党との戦いをジハードと呼びました。こうして主なもので7つのゲリラ組織が出来上がり、ソ連は思わぬ宗教戦争に足を突っ込むことになります。
ソ連側も、東側諸国及びその友好国がこぞってアフガニスタンに援助を送ります。ベトナム・ブルガリア・キューバ・東ドイツ・チェコスロヴァキア・北朝鮮・インド・エチオピアなどです。こうして、アフガニスタン侵攻はただの局地戦ではなく、近代文明の生命線を握る石油産出地帯の制圧を賭け、西側諸国と東側諸国の今後を賭けた総力戦となってしまったのです。抜き差しならない状況の中、ブレジネフは1982年11月10日、モスクワで亡くなりました
行きがかり上話をすすめますが、1980年、イラン・イラク戦争がはじまっていました。イランのホメイニ師にとっては、脱イスラムを掲げるバース党の支
配するイラクは許されざる政体ですし、ホメイニ師に扇動されて暴動を起こす多数のシーア派(55%)を抱えるフセイン大統領率いるイラクにとって、シーア
派のイランは目ざわり以外の何物でもありません。
結局、フセイン大統領による、国境を定めたアルジェ条約の破棄から始まったイラン・イラク戦争ですが、最初はイラクの快進撃が続きますが中東最大級の人
口(4300万人)を擁するイラン軍のしぶとい抵抗に阻まれ、反撃を食らいます。また、ソ連・東欧製の武器主体のイラク軍にたいし、パーレピ前政権が購入
したアメリカ製の武器で戦うイラン軍の差も表れてきたのです。
イランはイラク領内に兵を進め、1982年イラク南部の重要都市バスラを攻撃、40万人もの大軍を投入します。人海戦術を粉砕すべくイラク軍は毒ガスを 使用、1984年からさらにイランをの軍資金源を断つべくカーグ島へ向かう第三国タンカーを攻撃、イランも同様のタンカー攻撃を開始します。こうする間も
じりじりイランはイラクを追い詰め、バスラまであと10キロにまでせまります。そこでイラクはイランの石油積み出し基地シリー島付近のタンカーを攻撃、イ
ランはイラクへの軍需物資輸送を担っていたクウェートのタンカーを集中的に攻撃するなど、ペルシャ湾は無法の海となります。
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無差別攻撃を受けた原油タンカー
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悲鳴をあげたクウェートは米ソ両国にタンカー護衛を要求、ソ連が1987年クウェートにタンカー三隻を貸与、アメリカも中東艦隊がクウェートタンカー
11隻の護衛をはじめ、こうしてペルシャ湾岸には、護衛という名の公然たる米ソ介入が起こったのです。レーガン政権に入り、アメリカはペルシャ湾に二つの
空母機動部隊、計四十数隻、二万というベトナム戦争を上回る、第二次大戦以来最大規模の艦隊を終結させ、アメリカの同盟国のイギリスも10隻、フランスも 空母を含む17隻を派遣、イタリアも8隻、総勢80隻強の艦隊が終結、ソ連も23隻以上の艦船を派遣、ペルシャ湾は資本主義陣営と共産主義陣営の凄まじい にらみ合いの場となったのです。
ーーーこのページの主要参考文献ーーー
・『アジア冷戦史』
下斗米信夫
著
中央公論社
・『パレスチナ紛争史』
横田勇人
著
集英社新書
・『ペルシャ湾』
横山三四郎
著
新潮選書
・『新書アフリカ史』
宮本正興+松田泰二=編
講談社現代新書
・『ソ連共産党書記長』
木村明生
著
講談社現代新書
・『世界の歴史16』
松本重治
著
中公文庫
・『ロシア史 3』
田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
山川出版社
・『ゴルバチョフの時代』
下斗米伸夫
著
岩波新書
・『物語 アメリカの歴史』
猿谷 要
著
中央公論社
・『激動の東欧史』
木戸蓊著
中央公論社
・『アフガニスタン 戦乱の現代史』
渡辺光一
著
岩波新書
・『ロシア 闇と未来』
AERA ’92.2.20
朝日新聞社
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