ソビエト時代(11

〜〜 暫定政権 〜〜

  

(左)ユーリー・ウラジミーロヴィチ・アンドロポフ
Андропов, Юрий Владимирович
1914-1984

КГБ議長から、1982年書記長就任

(右)コンスタンチン・ウスチノーヴィチ・チェルネンコ
 Черненко, Константин Устинович
1911-1985

1931
年入党、イデオロギー担当相から、1984年書記長就任


怒涛の暫定政権

 


Российская
История

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История


 

 レジネフ書記長が死去し、それに伴い198212月の共産党中央委員会総会でアンドロポフが書記長に任命されました。彼を書記長に推したのはあのミスター・ニエットことソ連政界の重鎮外相グロムイコ、国防相のウスチノフです。アンドロポフはもと情報機関の長、КГБ議長であり、かつ1956年のハンガリー動乱の際にはハンガリー大使であったことからソ連の内外情報に詳しく、外相のグロムイコも同様な人物です。

 ウスチノフも、軍部の長とはいっても1934年にレニングラードの軍事技術学校を卒業し、レニングラード「ボリシェヴィキ」兵器工場長を勤めた後、33歳で軍需工業人民委員をつとめ、その後も軍需工業相、国防工業相を兼任した人で、1944年に技師・技手勤務大将の軍称号を得た人です。つまりは、旧軍風に言えば兵科将校でなく兵技部上がりでして、言ってみれば技術将校だけに、つねに結果を数字のデータというこれ以上ない明確な形で示され、非情な現実を毎日突き付けられ、受け入れざるを得ない理系人間でして、むやみな大言壮語や蛮勇といったものからかけ離れており、彼我の長短所を冷静に推し量らざるを得ない人物です。

 ただ、そんな最もソ連内外の事情に詳しかったはずの彼らがソ連史上最大級の失政、アフガニスタン侵攻を決定したわけですから、もはやソ連も運のつきだったといえましょう。

 外部の情報に通じたかれらに共通したのは、レーガンという史上最高のウルトラタカ派大統領による、アメリカの対ソ連包囲網が敷かれた事、ソ連が軍事・工業技術・経済など方面で極めてまずい事態、特に80年代半ばの石油増産の落ち込みと石油価格の暴落で、石油に頼っていたソ連経済、人間の活動の根本を握る経済状態の急速な凄まじい悪化(のちのゴルバチョフは1980年代にすでに、ソ連の経済成長がマイナスに突入していたとのちに語っております。)を知悉していたということでした。下手に湾岸地域に手を出したツケでアメリカの猛反撃をくらい、レーガン政権の誕生を生み、やむなく国家予算の25%を国防費に投入したが故の事態でした。そこでまさに場当たり的ですが、 アンドロポフ時代に経済最優先の方法がとられ、これがゴルバチョフ書記長時代の経済改革の盛り上がりと続きます。

 先ほども述べましたが、ソ連の経済不振の最大の原因は石油増産の落ち込みと石油価格の暴落です。ロシア経済の石油頼みはプーチン時代の現在(2007年)にはじまったわけでなく、すでにソ連時代からです。。石油増産率は60年代年率91%アップ、70年代55%アップと躍進を続けてきましたが、80年代には停滞、84年には前年比05%減と第二次世界大戦以降の初めての減産、85年には29%減となりました。かててくわえて、石油価格の暴落がソ連経済を直撃し、ソ連の外貨収入は84年の168億ドル、85年の127億ドル、86年の85億ドルと、たったの2年で半分に激減してしまいました。当時(1980年代)世界の石油の5分の1を算出しており、原油の販売で外貨を獲得していたソ連には極めて大きな痛手です。

 この時期科学技術の遅れが目立ったソ連では、ヨーロッパを中心として石油を輸出して外貨を稼ぎ、その外貨を使って穀物(バイオテクノロジー技術の未発達による品種改良技術の後れ、農業機械の遅れでやむなく)、原料、技術・工作機械を西側から買い付け(日本の東芝機械がココムに引っかかったりしました。)るようになっており、購入資金である外貨収入の6065%が石油の売却でしたからたまりません。アフガニスタン侵攻でもともと弱っていたところで、減産と低価格をくらい、ソ連経済がガタガタになってしまいました。もともと重厚長大型産業に徹底的に力を注ぎ、消費財軽視だったところに、外貨収入減少で原料不足に陥りましたから、(べつに共産主義時代に限らず)ロシア式に非能率な各種原料工場はたちまち生産量減、一気に物不足がソ連をおそいました。

 結局、ソ連経済の破綻は社会体制云々というより、身の程を超えた覇権主義(デタントが成功しなかった以上、やむを得ない選択肢であったとはいえるのですが。)、その象徴たるアフガニスタン侵攻と原油の低価格にその直接的な原因があります。これに加えるなら、科学技術の遅れがあげられるでしょう。

 また、この時期を特徴付けるのが、テクノクラートとしてではなく、政治や機関の長としての高学歴者の台頭です。最後のオールド・ボリシェヴィキの1982年のスースロフの死が象徴するかのごとく、この時期には共産革命を実際に体験した世代は殆どこの世を去りました。ブレジネフ時代のゲロントクラシーのひとつの原因は、政治の中枢を占める人物をあくまでオールドボリシェヴィキ、あるいはその薫陶を受けた人に限っていたが故です。革命の戦士に代り、高学歴者の政府機関採用・抜擢が奨励され、その関係で抜擢されたのがモスクワ大学法学部卒業のゴルバチョフ、КГБ議長時代のアンドロポフの下、КГБ職員に採用された、レニングラード大学法学部卒業の第2代ロシア大統領プーチンです。

 ピューリタン革命をおこしたピューリタン達、フランス革命のジャコバン党など、市民革命の中心を担った独裁革命党政権はいずれもごく短期間でその歴史的使命を遂げ、その生命を閉じました。しかしソ連共産党のみは実に82年にわたってその権力を保った、かくも永い革命政権です。また、あくまで共産党の支配するソ連国家の中心は、古参党員もしくは彼らの薫陶を受け、大祖国戦争(第二次世界大戦の)荒波で鍛えられた人物で固まっておりました。後知恵かもしれませんが、このソ連支配階級の人事面の変化は、ひとつの時代、共産党の時代の終わりの象徴と思えてなりません。

 ともかく、この時代は過渡期特有の例外に満ちています。秘密警察出身者は政府のトップに立てない(確かにКГБ職員に対する一般ロシア人の恐れと憎しみと不信には相当激しいものがあります)というジンクスを破り、書記長に就任したアンドロポフ、そのアンドロポフに権力闘争で破れ、フルシチョフに敗れたマレンコフと同じく永遠のノーリターンコースに乗ったかに見えましたが、アンドロポフの死後、書記長になり、ソ連中央政界に劇的なカムバックを遂げたチェルネンコ、のちのソ連崩壊という激動の時代を象徴するかのようなトップ交代でした。


  〜 1. アンドロポフ時代の出来事ー人事刷新 〜

 1914年、アンドロポフはスタブローポリで鉄道員の息子として生まれました。スターリン時代は労働者、船員をやり、水運関係の専門学校を卒業したのち、ヤロスラヴリでコムソモール活動に転じます。彼を鍛えたのは第二次世界大戦時のカレリアにおけるパルチザン活動です。戦後もこの地域の党活動を続けますが、ブレジネフ時代、幹部会員(政治局員)のフィンランド人クーシネンの知遇を得、これが彼の出世の糸口となりました。

 1950年代には党中央委員会に務め、外交部門に転出し、1956年のハンガリー動乱の際はハンガリー大使でした。翌年、党中央委員会の東欧・中国担当の部長を務め、党書記となり、国際共産主義とイデオロギーを担当しました。1967年には党書記をやめてКГБ議長となりました。共産党が国家を支配するソ連においては、党の職を辞めたということは政治権力の座から決定的に離れたということです。さらに、それまでのソ連政界には、「秘密警察のトップは政治のトップにはなれない」というジンクスがありました。たしかに、秘密警察出身者で最高権力の座に近づけたのはベリヤのみ、しかも彼はフルシチョフに粛清されています。

 しかし、ブレジネフの健康状態が悪化したとき、イデオロギー・外交部門担当書記で、フルシチョフ追放とブレジネフ擁立に大功のあった重鎮スースロフ書記が死亡、その後釜にうまく座り19825月第二書記(イデオロギー・外交担当)に就任し、中央政界に劇的にカムバックします。さらに、それまでは圧倒的優位と思われていたチェルネンコ政治局員を抜き去り、198211月、書記長となり、ソ連の最高指導となりおおせます。

 アンドロポフを見ていて思うのは、さすがはКГБ出身者なのでしょうか、宣伝が巧みで彼が西側諸国に対し、なぜかインテリであり、開明的であるという印象を植え付けることに成功したことです。「アンドロポフについてまず知るべきことは、彼が英語を読み、話すということだ。ロシアはニコライ2世以来、初めて英語に不自由しない指導者を得た」と、ニューヨークタイムズ副社長のハリソン・ソールズベリーは書き、その他書架には英語の小説や辞書がぎっしりあったそうです。

 しかし、レーニンだって英語・ドイツ語・フランス語・イタリア語ができたことですし、アンドロポフの経歴を見る限り特に彼がインテリであるとは思えません。そもそも13ヶ月という短命政権では、かれがインテリか実はそうでなかったのかを判断することすら無理です。しかもアンドロポフは、ハンガリー動乱の際、ソ連当局の弱腰を非難するハンガリー大使であり、ソ連破滅の引き金、アフガニスタン侵攻の際にもКГБ議長として介入に積極的だったウルトラ保守です。何故彼の評価が高いのかはよくわかりません。

 しかし、アンドロポフのタカ派路線は、タカ派のスースロフが親分(口語ロシア語でкрыша、原義は屋根)でしたから、スースロフが生きているときは、彼の見解には逆らうことはできなかった、という事情も考慮されるべきでしょう。元КГБ議長としての力をふるって、コスイギンが失脚して以来誰も口に出せなかった経済改革を再び取り上げ、実行した(本人の健康問題で始めた途端終わりましたが)点、社会主義経済体制が、資本主義経済体制の競争に伍しえないことを書記長として党大会で初めて述べたこと(後述)が極めて高く評価されているのでしょうか。

 この辺りの宣伝の巧みさは、現(2007年)ロシア大統領で、アンドロポフと同じく秘密警察の長、КГБの第二総局の後進であるФСБ長官出身のプーチンも同じで、КГБ出身の政治家は、派手で効果的なパフォーマンス(パリクラブでの債務一括返済宣言など)を放つことで、狙った印象を世間に植え付けることに極めて長けています。確かにロシア経済が旧ソ崩壊直後から劇的な復活を遂げているのは動かしがたい事実です。が、外資誘致等の点からかなりな誇張は含まれていると思います。

 さて、新書記長誕生で新しい共産党党綱領が必要となります。共産党が強力な指導・統制役となり、国家どころかソ連社会そのものを牽引するソ連邦では、その党の今後進むべきおおまかな方向性を示す共産党党綱領は何にもまして重要です。アンドロポフはどのように述べたのかというと、

 ー「現行の党綱領は、第26回党大会の決定に述べられたように、世界発展の法則、共産主義を目指す党と国民の闘争の目的と主要課題を全体として正しく特徴付けている。綱領の原則的規定は実生活によって証明され、綱領に謳われた多くのことがすでに達成された。それとともにこの綱領のいくつかの規定が、時間の試練に十分耐え得なかったことを率直に認めなければならない。」ー

 つまりはなかば負け惜しみながら、党綱領の不備を認めてしまったのです。ソ連の最高指導者の口から出た、初めての共産党の指導の誤りの認識でした。ソ連を取り巻く状況はそこまで悪化していたのです。その後アンドロポフは綱領新稿に盛り込むべき内容を国内建設、対外政策、党活動の分野に分けて簡潔に述べました。

 アンドロポフは書記長に就任するとアメリカとの対決姿勢はそのままで、経済を立て直すべく人事刷新を図ります。ブレジネフの側近でブレジネフ人脈の中心的存在だった(つまりはブレジネフ時代の縁故主義の象徴だった)キリレンコは強制引退、同郷人で農業担当だったゴルバチョフを登用し、新設した党経済部長・書記にルイシコフを登用、世界経済国際関係研究所所長にのちのペレストロイカのブレーンの一人、カナダ大使アレクサンドル・ヤコブレフを登用、この一連の人事がペレストロイカの土壌となりました。また、例によって例の如く、帝政ロシア時代から、実験的な政治政策は必ずこの地域で行われるロシア圏の実験地域バルト三国、それに加えてグルジアで経済改革実験が行なわれます。

 しかし、外界はソ連の状況などかまってはくれません。1981年、アメリカ大統領レーガンは最初の国賓としてチョンドファン韓国大統領をホワイトハウスに招き、対共産圏の前進基地たる韓国との連携をアピールします。さらにはMXミサイル配備や戦略爆撃機B−1の開発を進め、1982会計年度だけでも2229億ドルの国防費が予算請求されました。アメリカ史上初の国防費の二千億ドル突破です。198211月に成立した中曽根内閣も「ロン・ヤス関係」を築き、日米関係の強化に走ります。

 さらに、19833月、福音派キリスト教徒の全国集会で演説したレーガン大統領は、「歴史の事実や悪の帝国の攻撃的な衝動を意に介さず、軍拡競争は大きな誤解によると割り切ってしまうこと」や「正と邪、善と悪との戦いの全線から離脱して、軽々しく自ら超越的な立場に立つこと」を批判するという、有名な「悪の帝国」演説をぶちます。

 また、レーガンは3月末に戦略防衛構想(SDI)を発表します。これは、ソ連からの長距離ミサイルを、対空迎撃ミサイルやレーザー光線で撃墜し、核兵器を無力化・時代遅れにしようというものです。技術的・資金的には荒唐無稽とよばれましたが、ともかく、このアメリカの超積極攻勢の流れは、デタントの流れを完全につぶしてしまいました。かてて加えてレーガンはINF(中距離核戦力)のヨーロッパ配備をすすめ、11月には西ドイツの議会がアメリカ製ミサイルの領内配備を決定します。いきなりヨーロッパで東西の緊張が高まり始めました。

 このかつてないウルトラタカ派アメリカ大統領にソ連指導部がパニックに陥っていたのは想像に難くありません。このアメリカに追い詰められ、異常に緊張した時代に起こったのが、19839月の大韓航空機007号機のサハリン上空でのソ連空軍機による撃墜です。僕が記憶している限りの一番古い東西対立の事件です、この事件は日本でも連日ニュースで取り上げられ、非常にびっくりしたのを覚えております。ちなみに、このときに釈明会見を行ったのがアフガニスタン侵攻に対してもでも穏健な意見を表明したマトモ(まとも)派のオガルコフ参謀総長です。

 ただし、大韓航空のパイロットは退役とはいえ将校クラスの軍エリートが就任するのが常でした。そんな軍事の専門知識をもった人がパイロットを務める飛行機が、民間機とはいえ経路を誤りしばしばソ連領内を通過、しかもときにバイカル湖上空という内奥まで飛んでくるのは単なる勘違いではなしに、偵察だと勘繰られる可能性大であり、ソ連当局の神経を逆なでしておりました。当時を知る人(ソ連に住んでいた日本人の方)も、このままではいつか事件が起こると大韓航空機の使用は極力避けていたと言っておりました。

 しかし糖尿病を抱えるアンドロポフの病状は悪化、10月には直接指揮が取れなくなり、198429日に死去します。


   〜 2. ポーランド危機ー「連帯」の成立 〜

 話の都合上、すこし時間が戻ります。さて、1976年の食料品値上げに端を発した暴動を、戒厳令で無理やり乗り切ったギエレクですが、この手の騒ぎは根本的な問題を解決しないかぎり、またどこか別の場所で、一層激しい形で噴き出すものです。案の定、1980年夏、ソ連首脳部とも、ポーランド共産党とも関係ない自主的労働運動「連帯(ソリダルノスチ)」が生じます。

 1976年の場合と同じく、198071日に食肉と肉製品の値上げを発表しましたが、直ちにワルシャワ、ルブリンで暴動が発生、8月中旬にはグダンスクのレーニン造船所でストライキが発生し、近隣の工場のスト参加代表者もあつめて「工場間ストライキ委員会」が結成されます。委員長には、「本など読んだこともない」、と豪語するレーニン造船所の電気工ワレサが選出されました。






レフ・ワレサ(ヴァウェンサ)
Lech Wa??sa
1943


「連帯(ソリダルノスチ)」のリーダー



 この委員会は818日に21項目の要求を打ち出し、ストは全国に拡大、つまりはマルクス・レーニン主義とはまったく関係なく、共産党もソ連もコントロールしていない労働組合が誕生したことにポーランド政府は当然危機感を抱き、ヤギエルスキ副首相がグダンスクにとび、委員会と交渉します。交渉は難航しますが、ストライキが工業の中心シロンスク鉱山地帯に及ぶに到って831日、ヤギエルスキとワレサの間で政労合意協定が結ばれます。

 さて、こうしてこの労働組合は政府と交渉を行なってその要求を認めさせ、さらに9月中旬には地域的な組織の連合体として独立自主管理労組「連帯(ソリダルノスチ)」が誕生しました。組織の中心には「調整委員会」がおかれ、ワレサがその議長に選出されました。当然ギエレクは退陣し、後任としてカニアが選ばれました。協調路線を取ろうとするカニア党第一書記はポーランド国内で非常な力を持ち、連帯の活動を支持していたカトリック教会と話し合いを持つためヴィシンスキ枢機卿と会談、また「連帯」議長ワレサとも会談し、政労合意後の懸案解決の道を探ります。

 当然ですがソ連指導部はこの動きに非常な警戒を覚えました。スースロフを中心とした政治局小委員会が設けられ、ウスチノフ国防相、グロムイコ外相などは強硬路線を主張し、1981年春にはスースロフらがポーランドに派遣され、65日党としての警告の書簡をポーランドに送ります。「社会主義ポーランドの敵はその意図を隠していない。彼らは権力を目指す闘争を実行し、それに勝利しつつある」のに、「カニア、ヤルゼルスキその他ポーランドの同志達」は「譲歩と妥協の政策」を何一つ変えようとしていない、との名指し批判でした。ルーマニアのチャウシェスクなどはワルシャワ条約機構軍による介入を提唱しました。

 このような状況下、「連帯」とポーランド政府との政労合意後の具体的な議論の詰めは難航し、カニアが辞任、ヤルゼルスキ将軍が首相と第一党書記を兼ねます。ソ連はすでにポーランドに対する原油供給を例年の1/3にすると宣言していましたが、さらに127日、ソ連共産党書記長ブレジネフがヤルゼルスキに緊急電話をかけ、「反革命は諸君の首元まで迫っている。必要な措置をとらなければ手遅れになる。これは、もはやわれわれ全体の問題なのだよ。」と言い放ちました。ブレジネフ・ドクトリンの発動を示唆する発言でした。






ヴォイチェフ・ヴィトルト・ヤルゼルスキ
Wojciech Witold Jaruzelski
1923


シュタフラ出身、戒厳令でポーランドの危機を乗り越える。



 政府と「連帯」の合意も厳しく、このままではワルシャワ条約機構軍の介入もありうると見たのでしょう、ヤルゼルスキ将軍は19811213日未明、警察機動隊と軍を使い、全国の「連帯」の拠点を急襲、幹部・活動家を拘禁し、書類を押収して戒厳令を発しました。のちのロシア第一国防次官で、当時、ソ連のベラルーシ軍管区司令官だったドブルイニンは、ソ連軍は戒厳令が発動されなければ、14日にポーランド領内に侵攻する体制を整えていたと語ったということです。こうして一週間後には「連帯」の活動も下火となってきます。

 しかし、「連帯」の運動は終わったわけではなく、拘禁を解かれた「連帯」メンバーで「暫定調整委員会」が結成され、1982年メーデーではワルシャワで1万人以上、グダンスクではそれ以上が教会でのミサの後、「連帯」を支持する行進を行ないます。そこで政府は新しい産業別の全国労組の結成を予定する労働組合法を国会で109日採択、スト権を厳しく規制するも、労組の独自性と形だけでもスト権を認めるものでした。かくして「連帯」は非合法となります。

 ヤルゼルスキは前年度のグレンプ枢機卿との調整を経て、ワレサを釈放し、1983年ポーランド出身の法皇ヨハネ・パウロ2世がポーランドへ里帰りし、ヤルゼルスキは法皇と会談、その後戒厳令を解除します。1984年には、「連帯」の選挙ボイコットにもかかわらず得票率が75%に達したことを政治安定の証拠とし、722日の建国70周年記念日に広範な恩赦を与え、こうして「連帯」メンバーは社会復帰を果たしました。


  〜 3. チェルネンコ時代の出来事ー人事刷新 〜

 死去したアンドロポフに代り、1984213日、共産党中央委員会総会で名前からしてウクライナ系のチェルネンコが書記長として選出されます。チェルネンコはシベリアのクラスナヤールスク生まれ、1940年代末のモルダヴィア共産党以来ブレジネフの側近の一人だった人物で、1978年に政治局員になりました。外相グロムイコやアンドロポフはゴルバチョフを推薦していたのですが、ブレジネフ系の国防省ウスチノフがチェルネンコを推薦した結果彼が書記長となったのでした。しかし、チェルネンコはこのとき既に72歳、歴代最高齢の書記長、しかも肺気腫をわずらう重病人でして、中継ぎ人事は明らかでした。第二書記(イデオロギー・外交担当)にはゴルバチョフが就任します。

 第二書記は外交とイデオロギーを担当しますから、ゴルバチョフは1984年サッチャーと会見し、核時代には新思考が必要だと主張し彼女から評価されます(行き過ぎたサッチャリズムの弊害が叫ばれる今となってはこの評価も微妙なものがありますが)。

 また、新書記長誕生ですから、党綱領がいったいどうなるかというところですが、チェルネンコはアンドロポフよりさらに率直でした。

 ー「原稿綱領が提起した戦略課題、共産主義建設の課題は今のところ完遂されていないので、実際にわれわれは別の綱領を必要としていない。だからこそわれわれは第三次綱領の新稿という言い方をしているのである」ー

 つまりは、70年代には人口一人当たりの生産高がアメリカに追いこし、80年代には共産主義に突入するというあのフルシチョフが採択した無茶な「共産主義社会建設の綱領」はまだまったく達成されていないということを公の場で実に無粋に言ってのけたのです。ソ連社会を牽引する共産党の指針たる党綱領の達成が暗礁に乗り上げているということは、とりもなおさずソ連全体が暗礁に乗り上げているということにほかなりません。

 危機的状況のなか、ともかく軍事費を削減しようと、198411月にチェルネンコは軍備管理・軍縮問題で対米交渉を開始し、これと合わせてタカ派のオガルコフ参謀総長を解任し、アフロメーエフに変えました。ただ、政策は復古的でグロムイコの要請でフルシチョフとの権力闘争に敗れたモロトフ元外相を復党させるなどしました。

 しかし、チェルネンコを推したブレジネフ系のウスチノフ国防相が12月に亡くなります。ブレジネフ系の人物が失脚や死亡で政界からどんどん消えていく中、チェルネンコ自身の健康状態も悪化し、19853月、チェルネンコは亡くなりました。



     ーーーこのページの主要参考文献ーーー



   ・『ロシア革命五十年』 
    I.ドイッチャー著 山西英一訳
    岩波新書

   ・『アメリカ外交』 
    村田晃嗣
    講談社現代新書

   ・『ソ連共産党書記長』
    木村明生 著
    講談社現代新書

   ・『ロシア史 3』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
    山川出版社

   ・『ゴルバチョフの時代』
    下斗米伸夫 著
    岩波新書

   ・『物語 アメリカの歴史』
    猿谷 要 著
    中央公論社

   ・『激動の東欧史』
    木戸蓊著
    中央公論社

   ・『東欧革命』
    三浦元博 山崎博康著
    岩波新書

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