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-perchè sempre una mutazione lascia
l'addentellato per la edificazione dell'altra.-
ーなぜなら、いつも変革は、己に他の建物のための待歯を残すのである。(改革は、つねに他の改革を呼ぶ。待歯とは、あとで他の建物を継ぎ足すために建物に石やレンガなどを突き出しておくことです。)ー
ソ連史上最年少、54歳の若さで1985年、ゴルバチョフがソ連の最高権力者、共産党の書記長の地位につきました。ソ連の最高学府モスクワ大学法学部卒、当時ソ連史上最年少の49歳で政治局員になったゴルバチョフは、後から見れば革命後のソビエト政権が建設した秩序のエリートコースを最短期間で走り抜けてきた人物で、いわば共産党のプリンスというべき人でした。
アメリカのレーガン大統領の猛烈な軍拡攻勢に追随したための軍事費の負担、見かけは局地戦ながら、事実上の西側諸国と東側諸国の総力戦となったソ連版ベ
トナム戦争たるアフガニスタン侵攻の泥沼、石油価格暴落と技術的な立ち遅れからくる石油生産の落ち込みによる、石油頼みだったソ連経済の崩壊。ソ連は建国以来最大の危機、正確には経済危機を迎えていたのです。
そんな内政多難な時期に、ソ連指導部は共産党が築き上げてきた体制内が育んだ最高のカードを切ったわけです。時代を切り開く若い力に期待したい、そんな指導部の思いもあったのでしょうか。
しかし、1986年7月下旬、ゴルバチョフはハバロフスクとウラジオストックで演説をします。ハバロフスクの演説は国内改革がテーマで、「ペレストロイカに処方箋はない」と発言しました。つまり、ペレストロイカに関しては、正解を予測できない、どのやり方が最適なのか知ることは、試行錯誤によってしかわからないと言ったのです。
古代ギリシャ人によって打ち立てられ、公理を定義し証明を駆使することで、真理に到達できる(あるいは理性によって導き出すことのできる「真理」の存在を信じる思想)というヨーロッパ人に消しがたい影響を与えた考え方。ユークリッド幾何学的な思想の上に立ち、17世紀ニュートンによって生み出されたニュートン力学、自然科学の急激な発達は技術の発達を促し、それによって起こった産業革命は社会の構造すら変えてしまいました。
科学技術の発達に刺激され、自然科学の手法を社会に応用することによって、品種改良やダムや堤防などの自然開発と同様、社会を人為的に作り変え、社会経済の発展・管理を人間の思いのままに、つまりは計画的にコントロールできるという考え方。公理を定義し証明を駆使することで、真理に到達でき(たと思われた)自然科学と同様に、社会経済の進むべき唯一の最適値(真理)が存在し、それを人間理性で導き出すことができるという考え方、その極地である共産主義思想。選び抜かれた前衛的革命エリートたちが結集した唯一の最適な(正しい)党による唯一の最適な(正しい)決定、唯一の最適な(正しい)思想、唯一の最適な(正しい)世界への到達。共産主義体制とは、近代ヨーロッパで一世を風靡した理性万能論の行き着いた果てが作り出した究極の国家の姿でした。
彼らは、ギリシャ的な論理により発見できる真理を何よりも尊び、ギリシャ的な真理と同じく長く古い伝統を持っていた神の啓示による真理を否定したばかりでなく、神の存在そのものまで否定しました(王権神授説を思想的に否定するためには、当時としてはそれもいたし方のなかったことでしょう。)。トロッキー
が喝破したごとく、近代ヨーロッパは、その西の田舎たるアメリカに最極端な工業技術思想を輸出し、東の田舎たるロシアには最極端な社会思想を輸出したのです。まことにドイッチャーのいうがごとく、トロッキーは予言者でした、マキアヴェリの言葉のもじりのごとく「武力を失った予言者」でした。共産主義国の崩壊は、僕には近代の完全なる終焉に思えます。
以上の前提からすれば、ゴルバチョフの「ペレストロイカに処方箋はない」の発言や、彼が後に導入した複数政党制などは、もはや改革どころの騒ぎではな
く、共産主義思想の否定です。共産党エリートたる彼、つまり共産党に支えられた権威・権力にすがる彼がなぜそんなことを実行に移そうとしたのか、あるいはことの重大さを意識していたのかいなかったのか(あれほどのインテリですからそんなことはなさそうですが)、これも伺ってみたいことのひとつです。
しかし、ビスマルクの言葉とされる「政治とは可能性の芸術である」という言葉と好んで使った彼のこと、急進改革などまったく頭になかったと、後の行動からも断定できます。結果論なのが申し訳ないですが、ゴルバチョフはおそらく本人も自覚しないまま、鵺(ぬえ)的な、改革派なのか保守派名のか政治主張のよくわからない政治家になってしまったというのが僕の感想です。ラファイエットのような井伊直弼のような、過渡期の政治家だったのでしょうか。
しかし、彼の行動を追っていくと、共産主義は解体するが、ソ連邦は解体しない、またはそれが可能であると思っていたらしいふしがあります。アメリカ合衆国のような形で、資本主義化しつつもソ連邦を残せると。結局はごりごりのイデオローグ、スースロフ派の直系たるゴルバチョフのこと、彼は本質的には保守本流でした。しかし、アンドロポフも含め、ブレジネフ時代の停滞・腐敗をなんとかしなければならないとは考えており、そういった点では確かに改革者の面を強く持っていました。しかし、その改革は、あくまで体制内改革であって、彼の改革とは、あくまでも共産体制の手直しと、それによる共産体制の復活・強化を指向したものだったのです。
おそらくこうした考えの下、共産体制の改革(よく考えればその実破壊です)に着手したゴルバチョフですが、しかし、僕が題字として掲げた政治学の祖、フィレンツェ共和国第二書記局書記官マキアヴェリの言葉、-perchè sempre una mutazione lascia l'addentellato per la
edificazione dell'altra.-ーなぜなら、いつも変革は、己に他の建物のための待歯を残すのである。(改革は、つねに他の改革を呼ぶ)ーを彼は知らなかったのでしょうか。いや、モスクワ大学法学部を出たインテリの彼のこと、この言葉の載っている「君主論」も当然知っていてはいたが、まさかここまでことが進むとは予見できなかったのか、まだご存命で時々日本にも講演にいらっしゃるので、機会があればぜひ伺ってみたいものだと思っております。
ともかく、彼の改革は彼の望みに反し、共産体制内の改革にとどまらず、ソ連邦全体の変革を呼んでしまい、
政敵たるウルトラ強硬改革派のエリツィンの登場の機会を与え、自らが起こした改革の大渦に自らが飲み込まれ政治生命を失い、 皮肉にもソ連体制そのものを崩壊させることになってしまいました。辛辣な表現を許していただければ、マキアヴェリ的には、対立する二者(改革派と保守派)の間にあって、両者の均衡をとろうと奮闘したが、それが裏目に出て結果的にどっちつかずの態度をとることをとり、敗者(保守派)からはうらまれ、勝者(改革派、エリツィン派)の餌食になってしまった、というところでしょうか。
おそらく事実はこうだったのではないでしょうか。ゴルバチョフ以前の書記長たちは、いずれも本人自らが革命運動に身を投じたか、そうでなくても、ごく幼少期ではあっても自らの革命の最中を生き、年上の人や党の先輩政治家たちから革命について十分に体験談を聞くことができた世代でした。革命は、非常なスピードで進みました、革命の直接の引き金となったヴィボルグ地区のパンよこせデモの発生が2月23日、その後のニコライ2世の退位詔勅の発布が3月4日、帝政の崩壊まで二週間とかからなかったのです。
いったん社会改革が進みだすそれは非常なスピードとなり、ととどまるところを知らぬコントロール不可なものとなってしまう。その実例を実際に目撃したり、実際体験した世代に直接聞かされていた世代は、改革というものがもつ二面性のうちの、ときとして改革は制御不能な巨大な碾き臼と化すという恐ろしい部分を知り尽くしていたため、改革というものを扱う際に関して非常に慎重だったのでしょう。しかし、ゴルバチョフが物心ついた頃はすでに第二次大戦後です。若い世代であるため、そういう体験を真に迫って解説してくれる人もおらず、自らも若いためそういった改革の恐ろしさを経験することなく最高指導者についてしまったのでしょう。あるいは、ロシアの最高学府を卒業した自分の頭脳に自信を持ち、何が起きてもコントロールしきれると判断したのでしょうか。ともかく、ペレストロイカの彼の意図せぬ方向への進展、ソ連を改革し、強いソ連を取り戻すどころか、ソ連を破壊してしまった点は、若さゆえの過ちだったのでしょう。
さらに、彼はあくまでインテリでした。グラスノスチなど、インテリやマスコミ受けしそうな施策を打ち出す一方、節酒法など、道理はたしかにその通りなのですが、
どう考えても一般人受けしそうにない法案を通過させました。あるソ連人(青春時代をブレジネフ期に過ごした彼は、考え方はまさしくそういってもいい人でした。)の言葉が思い出されます。
ー 確かにソ連時代は、旅行も簡単じゃなかったし、留学していたとき、КГБに年に一回報告書を送るのも(祖国に対して忠実です、とかそういった内容だったよ
うです。)面倒くさかった。でも、うちの母親は、外国に行きたいなんて思わない、故郷が一番いい、って言ってたよ。普通の人にとって、海外旅行とか、思想とか政治とか、そんなのどうだってよかったんだよ。ー
国乱れて政論あり。政治が本当に安定していれば、普通の人は政治などに興味は持たないものです。世間の大半の人にとっては、思想の自由だのいった形而上のことよりは、これからどうやって食っていこうかといった形而下の世界がよほど重要です。思想や自由で飯は食えません、少なくともふつうは。グラスノスチは進んで確かに報道・言論・思想を自由にし、影響力は強いかもしれないが、どう高く見積もっても国民の5%にも満たないであろうごく少数のインテリを満足させたかもしれませんが、ペレストロイカ、特に経済改革はまったく進まず、国民の圧倒的多数を占める一般人の支持を失ってしまったのです。
また、完全に彼のせいというわけでもありませんが、自分を書記長に推薦してくれたグロムイコから実権を奪い、政治局員から解任して事実上ソ連政界から追放したこと、ソ連が政権の座につけたアフガニスタンのナジッブラー政権への一方的な援助打ち切りや、東欧革命が吹き
荒れた際の東ドイツのホーネッカー議長やルーマニアのチャウシェスク大統領が、政権の崩壊に直面した際も目立った援助を送らず、結果として見殺しにしまし た。
長年の同盟国たるイラクに対するアメリカの攻撃、湾岸戦争に対しても、なんら効果的な手は打てませんでした。むろん、政権の崩壊などは彼ら独裁者の身から出たさびという側面もありますが、苦境に陥ったからといって子分を見捨てる親分も見れたものではございません。インテリだから考え方がドライなのかなんなのかよくわかりませんが、これではゴルバチョフの部下たちも、頼りにならない親分からは離れていきますよ。在任期間中にクーデターを起こされたのも、もっともです。
経済政策でも、ゴルバチョフが政権についた1985年の時点で財政赤字が139億ルーブルでしたが、1989年には808億ルーブルに膨れ上がり、対 GNP比で9%、実際は13%と言われ、アメリカの最悪の財政赤字が対GNP比で7%だったことを考えると恐るべき比率です。国の累積債務残高も1985 年に1416億ルーブルから、1989年に3982億ルーブルに跳ね上がりました。これで目立った景気回復がなかったわけですから、ゴルバチョフの経済政策は完全なる失敗といっていい、というかソ連経済の崩壊の先鞭をつけたのは彼なのではないでしょうか。
また、夫人はウクライナ人とはいえ、ほとんど純粋なロシア人書記長のゴルバチョフ登場は、多民族国家のソ連にとっては統治上非常にマイナスであったと考
えられます。レーニン以降、ソ連の支配民族はロシア人でも、ソ連邦の頂点に立つ書記長は少数民族で固める、政治局員も、ロシアにおける人口比からすらば明らかに過剰に少数民族を就任させる、というのが通例でした。少数民族による多数民族の支配、すくなくとも見かけはこのようなやり方をとるのが、連邦内に住む多くの少数民族を慰撫する、ソ連統治の極意でした。
しかし、ロシア人を書記長につけてしまった結果、ゴルバチョフがバルト三国の離反を力で押さえつけようとしたとき、これまでの例に反し、ペレストロイカ
は進まないが、グラスノスチは順調に進んでソ連体制の末期的症状のみが広く国民に知れ渡ったという事情もあいまって、バルト三国のアンチロシア感情に民族感情がまざって大爆発し、結局ソ連邦解体の引き金となってしまいました。
こう書くとまるで彼の政治が失敗ばかりだといっているようですが、そこはさすがにモスクワ大学法学部出のロシアの恐るべきインテリの一人たる彼のこと、
ゴルバチョフの政治の真骨頂は外交的布石です。ゴルバチョフ時代に打ち、プーチン時代に見事に花開いた絶妙手などは、「さすがМГУは違うわい」 と、感嘆擱く能わずでした。
それに、ゴルバチョフ時代には、少なくとも彼の周辺では先代のブレジネフ時代のような閉塞の時代に特有の特別なコネを手にしたあやしげな取り巻きたちの跳梁跋扈、次代のエリツィン時代の、崩壊の時代に特有のとほうもない腐敗などはあまり聞きません。たしかに生活は苦しかったかも知れませんが、ソ連に一条の光が差したかに見えた時代でした。空気がよどむまもなく政権を去った在任期間の短さもありましょうが、彼の人格も与かって力あると思います。人間的にはクリーンな方なのではないでしょうか。
しかしなぜかこういう政権末期には、割と才能には恵まれた政治指導者があらわれ、難局を打開すべく大車輪の活躍をします。しかし、そのあがきで政権の首にかかった紐が早く閉まりかえって政権の寿命を縮めてしまうものなのです。亡国には亡国の君が適切です、こういう場合はブレジネフのようにじたばたせず何もしないほうが政権の寿命は延びます。ブレジネフ時代の「停滞」と称されるものは、農・工・軍の三界に通じ、デタントを進めるなど内政ばかりか外政まで携わった超人、この辺の事情を読みきったブレジネフの悪あがきを止めた共産体制の延命策だと僕は考えております。それにブレジネフ時代は、改革を行ったり崩壊させたりするには、ソ連邦はあまりに強力でした。
反ブレジネフとまではいきませんが、ブレジネフと考えを異にするスースロフ派から出世しましたから、ゴルバチョフがブレジネフ時代を「停滞」と切って捨てたのはある程度やむを得ないのですが、ブレジネフ時代が「停滞」なら、ゴルバチョフ時代は「崩壊」もしくは「カタストロイカ」といえましょう。そこはおそらく若気の至り、当時のブレジネフの方が読みが深かったのだと僕は考えます。ゴルバチョフ時代の経済苦を言う人はいるのに引き換え、ブレジネフ時代の安定した生活を懐かしむ声はちらほら耳にしますし。
ゴルバチョフはかつての二大強国ソ連を崩壊させた張本人でいわば冷戦敗北の「戦犯」であるとの声も聞きます。しかし、それでは共産体制の引き締めや改革のみでソ連が回復できただろうか、ブレジネフ時代最初期のコスイギン改革を徹底して行えば、ソ連は復活したのか、あるいは、ブレジネフのやり方を延々と続ければソ連は安泰だったのか、と考えれば、とてもそうとは思えません。ロシアを立ちなおさせるには、やはり根本的な処置が必要で、その結果がソ連体制崩壊とソ連体制から得た権力喪失につながってしまったのです。つまりは先代の悪政の清算に立ち会わされた、貧乏くじを引かされた人物なのでしょう。たとえコスイギン改革が徹底して行われたとしても、その結果は早めのソ連崩壊かと思われます。採点するならば、内政10点、外政120点、というところでしょうか。ともあれ、彼の政治を見ていきましょう。
〜 1. ゴルバチョフの生い立ちー権力掌握まで 〜
ゴルバチョフは、1931年3月2日、ロシア南部の穀倉地帯スターブロポリ地方のクラスノグバルディスク地区、プリボーリノエ村でコルホーズ議長の子として生まれました。この地区は、1932年スターリン農政の実行者となったカガノーヴィチが派遣され、彼が党の指令に不服従な村のブラックリストを作り、そのうち16を村ごと追放したクバン事件の起こったところでして、この地域が厳しい状況下におかれたことは想像に難くありません。ゴルバチョフの二人の祖父も抑圧・粛清の犠牲になったといいます。
1955年、大学を卒業後、故郷のスターブロポリ市のコムソモール(共産党青年同盟)第一書記に就任します。そして地元の農業大学で通信教育をうけ、農
業専門家として党活動に乗り出しました。そしてスタブローポリでの農業発展に功績があり(気候温暖でお茶まで生産できるこの地方での農業政策は誰がやって もうまくいくとの話もありますが)、1971年、スターブロポリ地方第一書記クラコフの農業担当書記就任に伴い、彼の後釜に収まり、39歳の若さで地方第一書記となりました。
ゴルバチョフは、スターリン時代にブハーリン粛清後の党内イデオロギー担当・スターリンの演説執筆などを受け持ったフィンランド人政治局員(当時の呼称は幹部会員)クーシネンに見込まれて出世し、後の書記長と
なったКГБ議長出身で、ゴルバチョフの同郷人のアンドロポフや、スタヴローポリの州第一書記を勤めた縁があり、アンドロポフのボスで、クーシネン後のイデオロギー・外交担当書記(第二書記)を務めたスースロフらの注目を集めて出世を始めた人です。
スースロフは、スターリンの死後、最初マレンコフ派であったにもかかわらず、マレンコフ追放時にはフルシチョフに味方してフルシチョフ書記長を誕生させ、
フルシチョフが支離滅裂な政策でソ連政界の支持を失いブレジネフが反フルシチョフの宮廷革命を起こした際にはブレジネフに味方し、ブレジネフ書記長誕生に全面協力して借りを作るなど、政権交代時の身の処し方の絶妙さとキングメーカーとしての功績でソ連政界に隠然たる勢力を作りあげていました。スースロフの子分のアンドロポフが駐ハンガリー・ソ連大使時代になにがしかの助言を与えたいわれるハンガリー動乱鎮圧、同じくКГБ議長時代のアンドロポフが積極的に参加したアフガニスタン侵攻にみられるがごとく、スースロフはブレジネフ派とは別に、タカ派保守本流勢力を作り上げることに成功していたのです。
ちなみに、スターブロポリ地方第一書記クラコフですが、彼はブレジネフの申し子といわれた人物でした。1977年のポドゴールヌィの失脚で共産党序列第5位まで上り詰め、政治局員で書記を兼ね、年齢も50代後半とちょうどよく、軍やКГБと関係がないところから、ソ連内外での衆目の一致したブレジネフの後継者でした。ソ連共産党書記長就任に不可欠な条件、農政での成功も果たしており、あえて難をいえば農政以外での経験が少ないというところがありました。
フルシチョフとブレジネフの出世もカザフ農政の当初の成功であり、フルシチョフの失脚も後にカザフ農政の失敗が明らかになったことに大きな原因があります。レーニンのネップ方式の食糧調達失敗をうけた、スターリンの強制的な農村からの食糧徴発が原因の1932−1933年の飢餓発生に際しては、スターリンの同郷人のキーロフを新書記長に推薦する勢力が現れたといいます。つまり、農政の失敗であのスターリンですら一時権力の座に揺らぎが生じたわけで、キーロフ暗殺などを使ってその逆境からカムバックしたところにスターリンの超人的なパワーがありますし、1933年から本格化する粛清は、農政失敗の責任を必ずや問うだろう幹部を根こそぎ消し去って自分の地位を保全するという役目もあったと思われます。農政の失敗を埋めあわせるためにはあそこまでの強攻策をとらないとスターリンですら権力を保持できなかったわけで、ソ連共産党書記長の就任については農政での成功がそれほど重要な条件となっていました。
ともかく、本格的なブレジネフ派の跡継ぎとなるべく、ブレジネフはクラコフを1971年の第24回ソ連共産党大会で政治局員に引き上げ、クラコフ以上の農政専門家といわれていたポリャンスキーを1973年に第一副首相から農相に降格、さらに駐日大使、駐ノルウェー大使に左遷して失脚させました。さらにクラコフはブルガリアやモンゴルの党大会にソ連代表団を率いて出席、1976年のクレムリン大宮殿でのロシア革命59周年記念式典前夜祭では党中央を代表しての基調報告を行うなど、ブレジネフはクラコフに帝王学を着々と学ばせていました。
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フョードル・ダヴィドヴィチ・クラコフ
Кулаков, Фёдор Давыдович
1918−1978
ブレジネフの後継者として嘱望される
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ところがクラコフは1978年、モスクワで開かれた国際見本市に出席した3日後急死します。功労者ということで遺体はクレムリンの壁の中に埋葬されましたが、巨頭ブレジネフ、コスイギン、スースロフはなぜか葬儀に出席しませんでした。得をしたのはゴルバチョフの所属するスースロフ派とゴルバチョフです。ゴルバチョフは11月の党中央委員会総会でアンドロポフとタカ派の領袖スースロフの引きでクラコフの後をついで農業担当書記となることに成功し、書記局に基盤を持ちます。
ブレジネフはショックだったでしょうが、ともかく新しい跡継ぎが必要ということで、ブレジネフが破格の出世をたどるきっかけとなったモルダヴィア共和国第一書記時代にモルダヴィアの第二書記を勤め、以後ブレジネフの秘書のようになっていたチェルネンコを政治局員に昇格(1977年に政治局員候補)させました。チェルネンコはキリエンコをけり落とし、党内序列第二位に昇格します。ちなみに、後のゴルバチョフの片腕で、1965年グルジア保安相、以後1972年グルジア第一書記となるまでずっとグルジアの諜報部門の総責任者だったシェワルナゼも政治局員候補になります。ゴルバチョフ本人は翌1979年、政治局員補となり、政治局にも足がかりを作りました。 1980年には49歳で当時最年少の政治局員になります。
ただし、問題はその若さでした。平均年齢70歳にちかい政治局の中で50代はガキんちょ扱いされたと思って間違いございません。したがって当初は彼のことを重要人物だと思っていたクレムリノロジストは皆無だったと考えられます。しかし、1982年の親分スースロフの死去で、彼のイデオロギー・外交担当書記に座って強大な政治力を手に入れたアンドロポフは、ブレジネフの死後、書記長になりますが、そのアンドロポフの子分として、ゴルバチョフは親分が占めていたイデオロギー・外交担当書記の座につき強権を手にしたのです。
アンドロポフの死でブレジネフ派のチェルネンコが書記長となりましたが、その時期にゴルバチョフは旧ブレジネフ派チェルネンコの対立派閥たる旧スースロフ派の領袖的な地位に就きながらも、第二書記の権力で身を守り、さらには病気で身動きとれないチェルネンコに代わって書記局会議を主催するなど、押しも押されもせぬ実力者と認められるようになりました。
1985年のチェルネンコの死後、スターリンの謦咳に接した数少ない政治家の一人で、党政治局会議で実務に長け外交の重鎮ですが、党内序列は低く万年平書記で、1973年に64歳でやっとこさ政治局員となり、1983年第一副首相となったグロムイコの推薦を得、軍需担当書記で対西側強硬派、レニングラード派の重鎮ロマノフ(娘の結婚式でエルミタージュ美術館からグラスを借り出し、乾杯の後で床にたたきつけたことで知られています。)、共産党モスクワ市委員会第一書記のグリシンらを退け、直後の党中央委員会総会でゴルバチョフを書記長とする人事が決まりました。ちなみにゴルバチョフはその若さにもかかわらず、その後数ヶ月でグリシンとロマノフを政治局から消すというすご腕をみせます。
さて、自分が最高権力者についた後は組織固めですが、ゴルバチョフは1985年4月党中央委員会総会を開き、ブレジネフ派のチーホノフ首相を更迭(コスイギンの引退とブレジネフの引きで75歳にしてやっと政治局員になった人物でしたから、これはさしたる剛腕も必要なかったと思われます。)、航空大学出の、テクノクラートのボス、リガチョフ(のちに急進改革派エリツィンと対立した人物です)を政治局員に引き抜き党第二書記とし、ルイシコフを経済担当書記とします。
また、7月には外相をシェワルナゼ(グルジアなまりのきついソ連外相で、外交的には素人でした。しかし、常に10人内外の、ソ連政治の最高階級たる政治局員であることに加え、グルジアの諜報部門の長であったこの人物に下手な手出しをすればただではすまない、という点ではにらみの利く人物です。)に変え、27年間もの間外相だった外交部門の大物グロムイコを最高ソビエト幹部会議長(名誉職です)に祭り上げて実権を奪い、実は権力闘争も巧みな政治家としての力を見せつけました。
もっとも、エリツィンの著書『告白』によりますと、グロムイコはこの時期にはもはや実際的な仕事はなにも行っておらず、10:00ごろにやってきて18:00には退出し、誰も何も言わなかったから、クレムリンにいれたのだと書いております。会議の途中でも、まったく議題と関係ない、自分がかかわった過去のアメリカとの交渉を、突然思い出したように語りだしたりするなど、グロムイコはこの時期には完全に過去の人となっていたようです。グロムイコが大物とはいってもそれは在職期間がながかったからそうなっただけのことかもしれません。
さらに、12月のグリシン引退を受けて、建築技師出身で、ウラルのスヴェルドロフスク州第一書記だったボリス・エリツィンをモスクワ市第一書記とします。書記長としてはじめての参加となる1986年の第27回党大会では、グリシンを政治局員政治局員から解任、代わりにエリツィンを書記から政治局員候補に就任させました。
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エドゥアルド・アンブローシエヴィチ・シェワルナゼ
Шеварднадзе, Эдуард Амвросьевич
1928−
グルジア人のゴルバチョフの片腕
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さらに、1983年にカナダ大使から世界経済国際関係研究所所長だった歴史家のアレクサンドル・ヤコブレフを党宣伝部部長とします。ゴルバチョフのブレーンとなったヤコブレフは1987年1月に政治局員補、6月には政治局員となり、スターリン時代のブハーリン以来の、社会科学部門の改革的指導者出の政治局員ということになりました。こうしてゴルバチョフはあっというまに自分の周りを側近もしくは改革派で固め、権力掌握を終えたのです。
〜 2. ペレストロイカ胎動ー新思考外交 〜
1984年末ごろから、彼を非常に有名にした「ペレストロイカ」なる言葉を口にしていたゴルバチョフですが、いよいよそれを実行に移せる権力者となったわけです。まずはアンドロポフ流に規律引き締めというわけで、1985年6月、ゴルバチョフは反アルコール・キャンペーンの一環として節酒法を施行します。公園や街中など公共の場で酒を飲んだり、酩酊状態での歩行を禁じ、違反者は罰金、一年以内に三回違反を繰り返せば強制労働となります。さらに職場で部下と酒を飲んだり、二日酔いで出勤するのも罰金の対象となりました。8月には酒類販売価格の一斉引き上げ、生産の抑制も行われました。
たしかに現在(2007年)でも、ロシア人の平均寿命は男で60歳を切りますがこれはアルコール過剰摂取がひとつの原因ですし(ほかはチェチェン紛争などによる戦死)、アルコールを摂取した人間の判断力が非常に鈍るのは周知の事実です。しかし、これは当然国民の評判が悪い政策であっただけでなく、帝政ロシアでシベリア鉄道建設費の捻出策の一環としてウィッテがはじめた酒の専売制は当時の税収の3割分だったといいますから、共産主義時代のソ連でも相当大き く、1985年で取引税額977億ルーブルだったのが、1987年には944億ルーブルに減少してしまいます。また、密造酒が横行してアングラ経済が成長し、密造酒に使う砂糖が品不足に陥るという事態にまで陥りました。アメリカの禁酒法の過去の失敗に倣おうという気はなかったのでしょうか。
しかし、ゴルバチョフは外交ではすばらしい動きを見せます。米ソ関係はアフガニスタン侵攻でこじれていましたが、1985年11月、ジュネーブで6年半ぶりに米ソ首脳会談が行われました。ここでゴルバチョフはレーガンと個人的な信頼関係を築き、SDI(戦略防衛構想)をめぐって意見が対立し、物別れに終わりますが、戦略兵器の大幅削減で合意します。冷戦に真の雪解けが来たかもしれないと、世界の注目があつまり、ゴルバチョフは国際政治での人気者となります。
1986年2月、ゴルバチョフは第27回共産党党大会を開き、党新綱領新稿を採択しました。これは1961年の第22回共産党党大会でフルシチョフが提案し採択した無茶な目標を掲げた党綱領の改訂版でして、共産主義社会実現の目標はたもちつつも、それを達成するための「発達した社会主義」の官製を目標とすることを提案します。そのためには、社会・経済発展の加速化が政治路線として採択されます。いわば、ペレストロイカのプロトタイプです。
そして1986年4月8月、ボルガ川中流の自動車工場の中心地トリアッチを訪れた際の勤労者集会で演説しました。「何よりもまず、思考と心理、労働のスタイルと方法の再編(ペレストロイカ)をからはじめなければならない。…再編は各職場で、各労働集団で、管理機関、政治局と政府を含む党および国家機関で行わなければならない。」。いまから考えれば具体的な内容がともなっていない演説ですが、これまでのブレジネフをはじめとする歴代書記長の紋切り型の演説に慣れていた(うんざりしていた)ソ連国民には、自分の考えを述べる書記長が出現したと強烈な衝撃をあたえます。
そうこうしているときに1986年4月26日、ウクライナ共和国の首都近郊のチェルノブイリでレーニン共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所の4号炉が制御不能となり、炉心が融解するという、原子力発電所の事故としては想定内ではもっとも深刻なもの、つまりは地上における核爆発が起こりました。同じく炉心融解までに至った深刻な原子力発電所事故としては、1979年のアメリカにおけるスリーマイル島の事故がありますが、チェルノブイリ事故は、原子炉の天井が吹き飛び、外部に大量の放射性物質が放出された点で被害が甚大でした。ちなみにこのときソ連工業の中心地帯ウクライナを守るため、キエフの住民を一斉避難させる計画がありましたが、風向きにより放射性物質はベラルーシ方面へ向かい、計画は発動されなかったといいます(ベラルーシは優先順位が低いのでしょうか)。
しかし、そのままほおっておけばいずれ死の灰は風に乗ってモスクワ周辺などの人口稠密地帯に降り注ぐことになるので、ソ連政府はヨウ化銀の結晶を飛行機で空中に散布して雨を降らせる技術(革命記念パレードの日など、必ず晴れてほしい日にはまえもってこうした”雨のタネ”を空にばらまいて人工的に雨を降らせ、式典当日を必ず快晴にする技術が確立されています。しかし、このように自然の摂理を無視したことをやると、その後一週間は天気が非常に不安定になるそうです。)を使用し、ベラルーシで降雨を作り出し、死の灰をベラルーシに落したということです。さらなる被害の拡大を防ぐためにはやむを得ない処置だったのかもしれませんが、釈然としないものが残ります。もしこの話が本当だとするなら、誰かを犠牲にして助かろうというのは間違っていると思います。
この事件は27日のスウェーデンでの放射性物質検出で世界が知り、28日にはソ連当局も認め、ソ連時代の事なかれ主義と隠蔽体質の象徴となります。
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事故後の4号炉
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そこでゴルバチョフも本気になったのでしょう、86年5月には外務省で「新思考外交」と銘打った大幅軍縮の理念を説き、7月下旬、ハバロフスクとウラジオストックで演説します。31日のハバロフスクの演説は国内改革がテーマで、ペレストロイカに処方箋はない(試行錯誤の上での社会主義)と発言しました。
ペレストロイカは新旧体制の仮借なき闘争であり、グラスノスチ政策や批判・自己批判は普段の日常プロセスに強化されねばならない。さらに「民主化」政策を党の方針としたい、経済管理システムの改善をひとつの構想に基づいて進めるべきとの経済改革方針が示されました。
−「今 問題となっているのは大規模な改革である。現在の再編(ペレストロイカ)は経済だけでなく、社会活動の他のあらゆる面ー社会関係、政治体制、精神・思想分
野、党とすべての党員の活動スタイルと方法にも及んでいるのである。再編は(ペレストロイカ)はあらゆるものを包括している言葉である。私は再編(ペレス トロイカ)という言葉と革命という言葉の間にイコールをつけたい」−
と述べました。こうしてペレストロイカという言葉の定義が本人によってなされました。
従来のソ連ではありえない発言のオンパレードです。公理・証明による真理への到達を絶対視し、その手法が自然界のみならず社会にも応用できると確信し、選び抜かれた前衛的革命エリートの集う共産党での唯一正しい決定、唯一正しい思想、唯一正しい社会の達成。このようなイデオローグが建前論はともかく前面に押し出されていたソ連にとって、試行錯誤しなければ本当に正しい政策がわからない、とか、共産主義の理論によって導かれた唯一正しい政策への批判とか、公に発言される、しかも共産党トップの口から放たれるとはありえないことです。「民主化(党による官僚支配の排除、つまりは赤い貴族といわれた特権階級たる共産党幹部の排除)」もそうですが、ブレジネフ時代初期のコスイギン失脚後は禁句とされていた経済改革がでるなど、ソ連は変わりそうだ、という期待を抱
かせるには十分でした。
さらにはウラジオストックでは、ソ連を米国とともに太平洋国家であると定義し、協力のありうるべき基礎についての審議に加わる用意がある、と発言。さらにはアフガニスタンからのソ連軍の部分撤退計画(世界の死命をにぎる油田地帯の湾岸をめぐるグレート・ゲームから、一時的にも手を引くということです。)を明らかにしました。これまでとにかくアメリカと角突き合わすことしかいわなかったソ連外交にとってこれはコペルニクス的転換といいますか、ともかくすさまじいことです。さらに、アフガニスタン撤退とアメリカとの対立の停止はソ連を膨大な軍事費から開放するということです。実際に1986年の末、アフガニスタンから6個連隊が撤退しました。
しかし、マキアヴェリ曰く「長所は短所をひきずらずにはおれない。」です。これは裏を返せばアフガニスタンの親ソ政権および協力者の切り捨てであります。たしかにアフガニスタン一国の情勢よりもソ連経済の再建と西側諸国の関係改善のほうが優先でしょう。しかし、やはりインテリは情に薄いというか、これは確実に因果応報を食らいそうな仕打ちです。1986年5月にはカルマル革命評議会議長がКГБの圧力で解任され、秘密警察長官のムハンマド・ナジッブラーが政権を引き継いでおりましたが、12月、ゴルバチョフはナジッブラー議長をモスクワに呼びつけ、ソ連軍撤退がクレムリンで意思決定されていることをつげ、アフガン支援の打ち切りを事実上宣告します。
中国に関してもド肝を抜く外交戦略をとります。アムール川の河川国境は主要水路を通る、と発表し、国境河川の中州の問題を中国側の主張を認める形で解決する方針を打ち出したのです。これにしたって、長年の中ソ対立がちっぽけな中洲の返還で解決できるなら、安いもの、というか安すぎるというものです。フルシチョフが不用意なスターリン批判から引き起こした中ソ対立の状況下、強力な同盟国をもてなかったソ連は、ブレジネフ時代、非同盟国すべてと戦闘状態に陥っても対等に渡り合える軍事力をもつことを建前として、膨大な防衛費を割いていたのですから、中ソ和解がなれば国家財政は本当に一息つけますし、うまくいけば同盟国も手に入れることがで
きます。これはちなみにプーチン時代に実現しました。
さらに、日本を軽視し、サンフランシスコ講和条約を調印しなかった超大物グロムイコを閑職に追いやり、これまでのグロムイコの影響下、誰も言い出せなかった日本への評価、日本を巨大な経済力を持つ第一級の国家として「世界経済で絶大な役割を、そして世界政治でますます顕著な役割を果たしている注目すべき国」と述べました。これも、日本が現在(2007年)、アメリカに次ぐ世界第二の市場規模を誇ることを考えると、そう考えておいたほうが妥当です。
10月にはレイキャビクで米ソ首脳会談が行われ、戦略核戦力の5割削減と中距離核戦力(INF)の全廃が原則的に合意されました。しかし、レーガンは「SDIは交渉の道具ではない」つっぱね、またも条約締結は見送られます。
11月中旬にはモスクワでセフ(コメコン)諸国の実務サミットが開催され、ゴルバチョフは各国指導者に対してペレストロイカと同様の改革を促すとともに、「各国は自らの責任においてそれぞれの国を治めるべき」と発言、ブレジネフ・ドクトリンの放棄を宣言します。これにより、東欧諸国はソ連の強烈な内政干渉の縛りから開放されたということです。しかし、これは一面、これまでソ連に忠誠を尽くしてきた東欧諸国、とくに、ソ連に尽くした分自国民から恨まれた各国指導者たちを見捨てるということにもなります。
1987年12月、ゴルバチョフはアメリカを訪問し、ワシントンの米ソ首脳会談で中距離核戦力(INF)の全廃条約調印にとうとう成功しました。
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INF全廃条約に署名するゴルバチョフとレーガン
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1988年2月にはシェワルナゼがアフガニスタンからの撤退を発表します。4月にはジュネーブで和平協定が調印され、調印式には国連のデクエヤル事務総長が立会い、ソ連のシェワルナゼ外相、アメリカのシュルツ国務長官、アフガニスタンのワキル外相、パキスタンのヌーラン外相の四者が合意文章に署名、米ソ両国が覚書をあらわし、アフガニスタンへの不干渉と不介入を確認しあいました。
この調印の直前、ゴルバチョフはウズベク共和国のタシケントへ、アフガニスタンのナジブッラー大統領を呼びつけ、アフガニスタンからのソ連軍が撤退することになった事情を述べ、20年期限の友好善隣条約の中途打ち切りを宣言し、撤退後も一年間はソ連がアフガニスタンに武器と資金の援助を行うという、いわば手切れ金を渡しました。5月にはソ連軍の撤退が始まり、1989年2月、ソ連軍の撤退が完了しました。
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ソ連軍のアフガニスタン撤退
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このゴルバチョフによるアフガニスタン撤退は、やはり悪い行いは終局的にはろくなことにならないからやめたほうがいい、というような考えから行われたことではなく、あくまでソ連経済に一息つかせるといったものでした。同じ1988年には、アルメニア系住民が多数を占めるアゼルバイジャンのナゴルノ・カラバノ州でアルメニアへの帰属を主とする独立運動が起こり、そのどさくさにまぎれてアルメニアがソ連邦からの独立宣言を出しましたが、ゴルバチョフは認めずソ連軍を出動させ、騒乱を鎮圧しました。ソ連邦の枠組みは死守し、分離派は許さない、のちに起こるバルト三国の独立運動も軍事力で鎮圧しようとした保守本流、スースロフ派の横顔がちらりと見えた瞬間でした。
さらにアルメニアですが、このどさくさのなか、12月7日にマグニチュード6.8の地震が起こります。また、時代下って1991年4月29日、グルジアで、南オセチア州を自治共和国にする要請に端を発したグルジアと南オセチアの紛争のさなか、やはり大規模な地震が発生します。当時のソ連では、民族紛争の相次ぐ地域での地震の多発は、ある種の地下ミサイルによる秘密兵器の地震爆弾ではないかとの噂が立ったとのことです。最近では、中国でも2008年、チベット族の多い四川省で同じような地震が起こりましたが、第二次大戦後の兵器の技術のほとんどすべてをソ連から学んだ中国のこと、うわさの真偽はどうなのでしょうか。
〜 2. ペレストロイカ加速ー冷戦の終結 〜
さて、改革というのは必ず保守派の抵抗にあいます。それが保守派の党第二書記リガチョフとモスクワ市党第一書記エリツィンの激突です。エリツィンは10月の中央委員会総会でペレストロイカの遅れを非難、リガチョフを名指しで批判したのです。ペレストロイカの批判=ゴルバチョフの批判であり、バランスの取れた基本繊細なインテリたるゴルバチョフにとって、この手の騒乱は彼の神経にも障ったのでしょう。エリツィンは政治局から追放、モスクワ市党第一書記を解任されてしまいます。
エリツィンの回想録によると、ゴルバチョフは「君はもう二度と政治の世界に復帰させないからね」といったということですが、エリツィンを1988年には閑職とはいえ建設部門の職につけ、党協議会議でソ連史上初めて一応(エリツィンによれば入院療養中だったのを無理矢理引きずり出されたとのことです)自己弁護の場を提供されます。あくまでバランスをとろうとしたのでしょうが、「偉い人たちの間では、新しい恩義によって昔の遺恨が水に流されるものであると考えるならば、それは大きな間違いである」が、後にもろに証明されたことになりました。
1988年9月、さらにゴルバチョフは第19回党協議会で政治改革の必要を訴え、これまでの最高会議に変えて自由選挙地方選局、民族地方選挙区、社会団体からそれぞれ750名ずつ選挙された2250名からなる人民代議員大会と、そこから選ばれる400〜450名の最高会議というソビエト的議会を作ることに決定しました。しかも議員の2/3は、これまでのような党の推薦した唯一の候補者の信任投票のみではなく、複数候補の立候補によるロシア革命以来の自由選挙で選ばれるという、共産主義の枠組みを超えたものでした。
1989年3月に行われた選挙で党書記の1/5が落選、エリツィンも地元ウラルでなくモスクワから立候補、90%近い支持を受けて当選し劇的にソ連政界に復活、レニングラードでも改革派のサプチャーク(彼が国際関係担当顧問として雇ったのが、かつての教え子のКГБ予備役で、当時母校レニングラード大学学長の国際担当補佐をやっていたプーチンです。)がソロヴィヨフ共産党書記を破って当選、共産党の保守派が改革派にやぶれるという傾向が顕著でした。ゴルバチョフ自身は選挙なしの信任投票ですむ全国リスト記載者に振り分けられました。このころからゴルバチョフの国内における彼の人気に影がきざし始めます。
さて、1989年は外交的には東欧ブロック崩壊の年として記憶されます。1988年ゴルバチョフは国防省や軍の合意を得ないまま50万人規模の軍人員削減、中欧・モンゴルからの撤兵を表明しましたが、これは東欧諸国からソ連軍の重圧がとれ、各国の反共産党勢力の自由な活動の多大な追い風であるということです(むろん、これは実際に不面目な撤退の実務を行う軍に精神的・物質的に多大な負担を伴います)。2月はじめ、ポーランド政府とワレサの連帯の間で、円卓会議が開始されます。これはポーランド政府がポーランド共産党やソ連のコントロール外で発生した労働組合(政治組織)たる連帯を交渉相手として認めたということでした。4月にはポーランド政府は自由労働連帯を公式に承認し、自由選挙の施行を決定しました。
ただし、新設の上院(100議席)のみ完全自由選挙、最終決定権を握る下院(460議席)の65%は与党労働党グループの全国区リストによる信任投票、
という形にして連帯が政権を握ることのないように計算した上での選挙でした。そして6月の選挙を迎えましたが、予想通り上院は連帯のほぼ100%勝利 (100議席中の99議席)、ところが下院でも連帯が在野勢力に与えられた161議席すべてを占め、与党がなんと議席の2/3を握れなくなった(下院で173議席)のです。与党は全国区の信任投票ですら過半数を取れず落選する候補が相次ぐ惨状でした。
ポーランド労働党は2ヶ月間組閣を試みますがうまくいかず、ゴルバチョフの外交顧問ザグラジンはパリで「ポーランドにどんな政府が生まれようと、それは国内問題だ」と非共産政権の樹立を容認しかねない発言を出します。労働党はとうとうゴルバチョフに判断を仰ぎました。ゴルバチョフは電話で、大統領、国防相、内務相、運輸相などのポストを労働党が確保できればソ連の安全保障上の利益は守られると考え、連帯指導政権に許可を与えました。ヤルゼルスキが大統領、ワレサの提案でマゾビエツキが首相、連帯と非共産系の農民統一党、民主党の連立政権を組むことになり、9月12日、国会の承認を経て連立内閣が成立しました。戦後東欧発の非共産政権の誕生でした。
ハンガリーでは、1988年、ガーダール書記長の引退後、後を襲ったグロースの後任として程なく首相となったミクロシュ・ネーメトは、拡大中央委員会で
憲法改正問題を討議し、「憲法による『党の指導』は明記は主張しない」と確認、法治国家の理念に基づき、大統領・議会・行政府の独立した権限を保障することが決定されました。共産党が国家を支配する共産主義国において、これは共産主義をやめる、というのに等しい行為です。さらに12月社会主義国としてはじめて政党結社を容認する結社法、集会の自由を認める集会法を提案、1月には可決されました。
さらにゴルバチョフに話は戻りますが、1989年7月、ブカレストのワルシャワ条約機構首脳会談で社会主義国の主権は制限されるとしたブレジネフ・ドクトリンを否定するコミュニケを採択しました。これは、東欧諸国でいかなる民主化運動が起きてもソ連軍の介入がないということの宣言です。ハンガリーでは10月、第14回党大会が開かれ、党名を「ハンガリー社会主義労働者党」から「社会党」に変更、「ハンガリー社会主義労働者党の名を冠
した一時代が終わった。スターリン主義に起源を持つ体制は社会的、経済的、政治的、道徳的活力を使い果たし、いまや世界の発展に追いつくのに適さない。党の国家政党としての歴史は終わった」という「党の性格に関する立場」という事実上の社会党創立宣言を採択、国名を「マジャール人民共和国」から「マジャール共和国」に変更、ハンガリーは共産主義を放棄しました。
また、ゴルバチョフは1989年10月7日の東ドイツ建国40周年記念式典に招かれますが、夜の祝賀会に先立ちホーネッカー党第一書記・書記長と差し向かいで30分話し合い、退陣を示唆したようです。さらに祝賀会でのホーネッカーの東ドイツの発展と、東ドイツが開発したマイクロチップの共同生産にソ連が参加するよう呼びかけた演説に対し、ゴルバチョフは冷笑と誰にも聞こえた舌打ちの音で答えたということです。
結局17日の中央委員会の定例会議でホーネッカーは解任され、かわりにクレンツが書記長となりました。しかし、東ドイツの大物政治家ホーネッカーの退任はこの状況ではただ事ではすまず、ベルリンで史上最大規模の100万人規模のデモが発生します。1989年5月のハンガリーのオーストリアの鉄柵排除により、東ドイツよりハンガリーに入国し、オーストリアへ不法越境してウィーンの西ドイツ大使館で亡命を申請するという東ドイツ人の大量流出が続いていましたが、これに関してクレンツは出国規制緩和のための新旅行法案を発表しますが手ぬるいと人民議会で否決されます。11月9日、やむをえず新法案誕生までこれにかわる暫定規則を作成し、政府原案を記者団に公表したところ、これが手違いから閣議決定されたものと報道され、ニュースを聞いた東ドイツ市民がベルリン
の壁を突破、東西冷戦の象徴であったベルリンの壁が事実上崩れ去ってしまったのです。
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ベルリンの壁崩壊
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ブルガリアで35年間権力を保ってきた書記長兼国家評議会議長ジジコフは1988年ごろから辞意を示しており、1989年には「政治的多元主義なくして、社会の改革は考えられない」と発言しており、東欧の激震をしおに辞任、外相ムラデノフが後任になりました。チェコスロヴァキアでは劇作家のハヴェルらの民主フォーラムが台頭し、ハヴェルが年末に大統領となります。東欧急変の最後にして、最も悲惨な運命が待っていたのはチャウシェスクのルーマニアでした。
101年から始まった、ローマ五賢帝の一人トラヤヌスのダキア(ルーマニアのラテン名)戦役後、抵抗するすべてのダキア人を殺害するか奴隷に売り払い、残りはすべてダキアから追放し、ギリシャ・ローマ人の植民でその穴を埋めた、いわば民族浄化の上に成立したローマ属州ダキアからの歴史がそうさせるのか、どうもルーマニアはドラキュラのモデルとなったウラド・ツェペシュなど、暗く悲惨な話の多い国です。
話はさかのぼりますが、フルシチョフに反旗を翻し、独自路線をとり始めたルーマニアですが、石油ショックで原油の供給の必要に迫られ、1980年、グロムイコのブカレスト訪問の際、アフガニスタンのソ連支持を表明します。結果ソ連からの原油供給が行われますが、他のコメコン諸国のような同盟国向けの低価格ルーブル払いではなく、国際価格の外貨払いというきつい条件で、ルーマニアはこれに抗議したところ、当時の首相のコスイギンから、「結局、個々の分野におけるわれわれの関係とその発展のレベルは、政治的協力の程度によって決まってくる。」と切り捨てられます。さらに1979年、1980年は不作でした。
石油ショックの影響をまともに食らったルーマニアですが、1985年、チャウシェスクは電力非常事態宣言を発表し、エネルギー関連分野を軍部管理下におき、軍人を発電所、変電所に配置して違反者は厳罰に処することに決定します。また、街灯は半減、テレビ放送は1日2時間、という無茶な節電を実行。せめて農業生産を増やし食糧不足解消と輸出に回そうと、農村を「農工センター」に再編する「地方組織化計画」を施行しました。
しかし、これは耕地の大規模化と住民を集合住宅に移住させる計画であったため、反発したハンガリー系住民の住むトランシルバニアから住民が国境を越えて
ハンガリーへ逃亡、ハンガリーは一連のルーマニアの政策を人権侵害として国連人権委員会が問題を審議しましたが、ルーマニアが調査団の受け入れを拒否しました。これに関し、アメリカが言論統制・宗教弾圧・出国制限などの人権抑制政策を改善するよう要求しましたが、ルーマニアはアメリカから与えられていた最恵国待遇を破棄、国連人権委員会の意向を受け、西欧諸国もルーマニアとの通称交渉を見合わせ、ルーマニアは対外関係でも対内問題でもまさに八方塞となったのです。
さて、トランシルバニア地方のハンガリー系住民の利益代弁者だったプロテスタント系のラースロー・テケシュ牧師は1989年夏、ハンガリー行き旅券の発行を受けました。牧師はこれをはねつけ、ルーマニアのクルジュの教会に舞い戻りました。その後連日脅迫状が舞い込み、牧師の支持者が謎の自殺を遂げるにおよび神父は信者らのすすめでハンガリー国境に近いティミショアの教会に身を移します。
当局が神父の居場所を突き止め、12月16日に連行しようとしたところ信者が教会を取り囲み、数千人規模のデモに発展、それに対して治安部隊と軍が発砲、デモは数万人規模に膨れ、ブラジョフ、シビウ、コンスタンツァなどに広がり、チャウシェスクはティミス郡に非常事態宣言を発動しますが手遅れで、その騒乱の規模に軍も20日あたりから介入を手控え始めます。しかしチャウシェスクに忠誠を誓う、というかチャウシェスクに忠実すぎて汚れ役をやりすぎ、もはや彼から離れられない治安警察は発砲を続け、国軍と衝突、ほとんど内乱状態となります。
21日チャウシェスク大統領はブカレスト中心部の勝利広場で官製集会を開きますが、その参加者から「チャウシェスク打倒」の野次が飛び、爆竹が炸裂、演説は30分で切り上げられます。夕刻、大統領は指導部を緊急招集し、地方指導部にも直通回線で戒厳令を指示します。22日午前11時、大統領は全土に戒厳令を発し、軍に治安回復を命じますが、軍は命令を拒否、かえって装甲車で大統領官邸のある共和国広場に押し寄せました。群衆が書記長室になだれ込むのと同時に大統領夫妻は党本部からヘリコプターで脱出、100キロ離れたトゥルゴビシテ近郊に降り立ち、そこで待機していた乗用車に乗り換える予定でしたが、新政府からの逮捕状がでており、逮捕されます。
大統領夫妻は装甲車に70時間監禁された後、25日、ある兵営内で45分間の軍事裁判の後、銃殺刑を即時実行され、その映像が世界のニュースで流されました(僕もニュースで見ました。)。このあまりのスピード、手際のよさは新政権の救国評議会のクーデターとでもいうべきもので、ちょっと民主革命とはいえないものがあります。
ともかく、こうして東欧ブロックの共産政権とワルシャワ条約機構が崩壊し、裏を返せば労農赤軍(と裏方で諜報を受け持った内務人民委員部)がすさまじい犠牲を払ってナチスドイツとの血みどろの戦争で勝ち取った東欧における既得権を十分な根回し抜きですべて放棄したことになりました。同盟国も現時点では事実上すべて
失ったといえます。パワーポリティクスの見地からして、ソ連軍やКГБの怒りはいかほどのものだったでしょうか…。しかもソ連軍とアメリカ軍の直接の衝突は冷戦時代起こらなかったわけですから、戦場で叩きのめされた実感もないのに敗北宣言をだされたに等しい軍部の怒りの大きさたるや…。確かに当時としては
必要な措置であったとはいえ、この辺の人情の機微を考えないのは政治家としてちょっと、と思います。
こうしたなか、1989年12月1日、ソ連首脳として始めてゴルバチョフはバチカンを訪れ、宗教を否定する共産主義ということで対立していたヨハネ・パウロ2世と会談して和解、翌日2日にはマルタ島でブッシュ大統領と会見し、東欧の民主化の事実を承認し、冷戦の終結を宣言しました。こうして1940年代末から始まった冷戦は、ソ連の敗退を以て終結したのです。ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」が見事に決まり、赤化を恐れて地球をオレ様の色に染めたアメリカですが、いってみれば世界制覇終了というわけです。
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マルタ会談で冷戦終結を宣言した
ゴルバチョフ書記長とブッシュ大統領
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こうしてコミュニストを倒し、戦後世界の覇者となることに成功したアメリカですが、アメリカもただでは済んだわけではありません。冷戦の勝利の影に隠れてよく見えませんが、レーガンはその8年間の在任中で財政赤字を2.5倍の二兆五千億ドルに膨らませ、貿易赤字を五千六百億ドルにしてアメリカを世界最大の債務国へ転落させました。一度も使わないであろう核兵器の開発増産に、物資・人的資源・資金をつぎ込むことに愚かさに一足先に気がついたのがソ連なのではないか、と書いた本を読みましたが、なるほどそのとおりだと思います。
〜 3. 第28回共産党大会ー共産体制の終焉 〜
1990年2月には、ゴルバチョフは、党が国家を指導する体制がその最大の特徴たる共産主義国での、その根拠である憲法第六条の廃止を中央委員会総会で宣言します。1917年、革命により成立したレーニンの共産主義の精神はここに息の根を止められ、事実上終焉したのです。しかし、そのままでは誰が国家指導者かわからなくなりますから、3月に開かれた臨時人民代議員大会でゴルバチョフは大統領制を提案、自分の人気のかげりを気にしたのか直接選挙に打って出ず、人民代議員大会での信任投票で、最初で最後のソ連邦大統領に選出されました。
しかし、この「国民の直接投票で選ばれたわけでない」大統領というのは、国民の支持を受けていないという意味に受けとられ、のちのちの彼の政治的権威の弱みとなります。さらに、ゴルバチョフは共産党書記長の椅子に座り続けました。側近たちは書記長から辞任するように助言したといいますが、あくまで形式にこだわるゴルバチョフは5年間の任期満了後の退任を望み、また軍産複合体の代表バクラーノフは旧体制の保持の点から兼任を望みました。しかし、改革派からすれば、ゴルバチョフが国家の長と党の長を兼ねるということは、書記長が党と国家に関する全権を握っていた時代となにも変わらないのではないかということであり、のちに批判がエリツィンらからでます。
そして、話飛びますが6月には、おそらくゴルバチョフの最後の成果となる、連邦最高会議が採択した「新聞およびその他のマスメディアについて」が公布されました。第一条は以下のようなものです
「第一条 新聞の自由 新聞およびその他のマス・メディアは自由である。ソ連憲法によって保障された言論の自由と新聞の自由は、新聞およびその他のマス・メディアを含め、いかなる形態においても、意見と信条を表明し、情報と思想を探求し、選択し、受容し、流布する権利を有する」
ここに自由言論は保障され、ソ連時代の検閲は廃止されたのです。
さて、1990年は東欧諸国で複数政党制に基づく自由選挙が行われ、旧共産党系の政党は軒並み野党に転落、東欧における民主化のプロセスが軍・軍産複合体・秘密警察の敗北、特権の放棄、はなはだしくは過去の所業の清算にまで及ぶことが明らかとなりました。これはリガチョフら保守派の非常な危機感を誘いま
す。さらに、この東欧革命の余波はソ連邦の15の共和国のナショナリズムの高揚および連邦脱退の要求にまで高まりました。
その筆頭がバルト三国です。バルト三国、特にリトアニア共和国などは、中世においてモスクワ大公国を圧倒する力を持っていた国であり、かつての栄光の思い出を元とする民族意識の高い国でありました。自由化を進めつつも共産主義は守りたいという、まったく相反する考えがどういうわけかひとつの頭脳に同居していたゴルバチョフは、ソ連邦の解体や破壊などまったく望んでいませんでしたから、リトアニア共和国の連邦離脱を思いとどまるよう何度も説得を続けていま
したが、不可能でした。
共和国レベルで行われた、下で述べる複数政党制に基づく選挙では、各共和国で民族派が勝利を収め、リトアニア共和国ではランズベルスキが当選、3月15日には早々に独立宣言を発表し、同月にエストニアでソ連憲法を否定する独立宣言が出されました。ちなみにグルジアも三月はじめに主権宣言を出しました。これに対しゴルバチョフはリトアニアの独立宣言撤回を要求して4月21日から石油の供給停止を軸とする経済封鎖に出ました。結局リトアニア共和国から独立宣言の100日間凍結、連邦との交渉開始にもちこみますが、5月末にはラトビアもソ連憲法を否定する独立宣言を発表します。
さらに、さまざまな手を駆使したにもかかわらず、このころ、改革派の急先峰となることで、あくまでバランスの取れた政治をめざすゴルバチョフの最大の政敵となっていたエリツィンが、5月16日ロシア人民会議で賛成535、反対502のきわどいところでロシア最高会議議長へ選出されたのです。政治局員・政治局員補クラスでいったん左遷されてまた政界にカムバックを果たしたのは、前代未聞の出来事です。しかし、ゴルバチョフはエリツィンの共産党中央への主要ポスト就任は辛くも防ぐことができました。
するとエリツィンは、共産党全盛期には考えられない奇策に打って出ます。6月12日、エリツィン大統領のもと、ロシア共和国は主権宣言を選択しました。これは、ロシア共和国では、共和国の法律が連邦の法律に優先し、共和国の資源は共和国のものである、と主張し、1977年にブレジネフが制定したソ連憲法を否定し、ソ連邦に対し真に独立自尊を唱えるものです。共和国の資源は共和国のものである、という部分の資源という言葉は明らかに石油を指していまして、もし本当にロシア共和国が石油を抑えてしまえば、同盟国・連邦内共和国に対する石油の供給価格の増額・
供給停止というソ連邦の伝家の宝刀が使用できなくなります(いやはや、エリツィンのやることは時代に乗っておりましたから、半分はエリツィンのゴルバチョフへのとてつもない意趣返しでしたが、それでも成功しました。)。モルダヴィアもモルドヴァと国名を改めて6月末には主権を宣言、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、アルメニア、キルギスタン、カザフスタンがこれに続きました。これだけソ連邦内で主権宣言を出されてしまっては、15の共和国間の間で連立を保つには最低でもソ連邦の再編成が不可避となったのです。
ソ連邦においてロシア共和国は陰ながらでは大きな力を振るったかもしれませんが、表舞台ではひたすら黒子役に徹していました。ロシア以外の各共和国がもっていた独自の共産党、КГБ、内務省、科学アカデミー、国営テレビ・ラジオをロシア共和国は持っておらず、ソ連邦の直轄の機関を借用しておりました。
国連加盟にしても、ソ連邦、ウクライナ、ベラルーシは国連加盟国なのになぜかロシア共和国はそうではありません。また、ウラソフ前ソ連首相いわく、「わが (ロシア)共和国は、生産国民所得の半分以上を連邦に吸い上げられている。他の共和国と平等な経済活動の条件が設定されるべきだ」と主張しておりました。
ようするに、エリツィンらの主張は、極端に言えばロシアの共和国のソ連邦脱退による、中央(ロシア共和国)の地方(他の共和国)切捨てによるロシア共和国の負担軽減(裏を返せば元気な自分だけ助かろうということです。)、ロシア共和国はソ連邦内で親分張るのはやめだ、ということです。ゴルバチョフは冷戦を終結させることでソ連が国外で親分張るのをやめる、つまりは覇権国家たるをやめることを宣言し、東欧ブロックの崩壊を、指をくわえてみていました。ところが、エリツィンはソ連邦内部でロシア共和国が親分張るのをやめようと言いだしたのです。事態を放置することで東欧やアフガニスタンなどの親ソ政権を崩壊させたゴルバチョフは、今度は逆にエリツィンから自分が大統領の国であるソ連を掘り崩されそうになったのです。これこそまさに因果応報というものでしょう。
最高会議を仕切るウルトラ急進改革派(保守派からすればもはや分離派)のエリツィンを抑えるために保守派が考え付いたのが、ロシア共産党の創立です。それまではロシアをのぞく他の14の共和国にはそれぞれ独自の共産党がありましたが、ロシア共和国には共産党は存在せず(ロシア共産党は1952年ソ連共産党に改組)、ソ連共産党で代用していました。これまでロシアの利害はソ連邦の利害に直結していたともいえます。しかし、ロシア共和国の最高会議をエリツィンが握った以上、エリツィンはロシアのソ連邦離れを加速するのは必至です。ですから、共産党の権威と権力で共和国最高会議をコントロールする、あるいは、エリツィンらの求めるロシアの独立国家化に対する保守派的な妥協案、いままで独自の共産党がなくて、不完全な共和国だったというなら共産党を作ってあげるよ、これらの理由で6月、ロシア共産党が創立されました。
これまでのところ史上最後の正式な大会となった7月の第28回ソ連共産党大会で、プロレタリアート独裁の名の下で人民が所有と権力から阻害され、専横と無法状態と自然の乱開発がもたらされたと過去を批判、指導者個々人の誤りでなく、国家、党全体の誤りを認めます。これだけでもすごいことですが、「ソ連共産党は政治的・思想的独占体制、国家・経済運営の機能の代行を断固拒否する」と、党が国家を支配してきたこれまでの共産体制を改めて否定、党と国家を分離する原則を打ちたてました。
また、大会最終日には新党規約にしたがって党の幹部メンバーが選ばれましたが、国家機関の幹部が党の政治局員に誰も選ばれておらず、共産党の国家統治能力が劇的に消失し、しかもかわって政治局員には各共和国の共産党第一書記が任命されており、これまで事実上のロシア共産党だったソ連共産党が本当にソ連邦を構成する15の共和国の連合体となったのです。共産党は最後の土壇場に来て、スターリンが整備した民族を超えたプロレタリア国際主義を捨て、レーニンがかつて望んだ民族政党の寄り合い所帯と変貌しました。
しかし、ウルトラ急進派のエリツィンは、共産党は排他的な利権集団であり、早く選挙政党に脱皮しない限り東欧の共党と同じ運命を免れないと発言。さらに、大会終了直前、ー「私はロシア共和国の最高会議議長に選ばれている。共産党だけに従うわけにはいかない。私は共和国の国民に従うべきであり、共産党を離れる」ーと、共産党離党宣言を出します。モスクワ市長ポポフ、レニングラード市長サプチャクもこれに続きました。うーん、ロシア的抜け目のなさでうまく国民におもねるエリツィンですが、それよりなにより、今にして思えば、見事に時代の波の乗っておりました。
〜 4. ペレストロイカ後退ーゴルバチョフ保守化 〜
ウルトラ急進改革派のエリツィンに押しまくられ、10月の世論調査で支持率が21%に低迷していたゴルバチョフは自らの権力を守るため、保守派に接近します。湾岸戦争の対応がその例です。8月12日、イラクがクウェートに突如侵攻し、アメリカはそれを非難、1991年1月17日にイラクを空爆したことから始まった湾岸戦争ですが、これをめぐってソ連外交では二つの対応の可能性がありました。
まず、パワーポリティクスの点から言えば、なんといっても忘れてはならないのが、イラクはソ連の中東外交の橋頭堡、扇の要たる国家であったことです。第二次大戦後、ソ連はスエズ動乱に乗じてエジプトにソ連勢力を植え込むことに成功、さらにはバース党の中東世界への浸透に乗じてシリア、イラクなどにも勢力を伸ばしていました。しかし、エジプトでナセルが暗殺された、次期大統領サダドがイスラエルと単独講和、ソ連人顧問を追い出して急速にアメリカに接近しました。シリアもレバノン内戦に足を突っ込みすぎて弱体化します。その中で、独裁者の力で国内を安定化させた世俗国家イラクがソ連の信頼できる中東でのパートナーというわけで、友好協力条約(日米安全保障条約みたいなものです、イラクはこの条約も計算に入れ、いざというときのソ連のバックアップもみこんで戦端を開いたのでしょう)を結んでおり、イラクへの最大武器供給国がソ連でした。
なにしろ、ソ連が中東最大の友好国イラクの危機に関して何も出来なかったということになれば、ソ連頼むに足らずと中東諸国は一気にアメリカになびき、中東におけるソ連の勢力は地の面を払うがごとく一掃されてしまいます。共和制ローマが同盟国を決して見捨てなかったことのひそみに倣うなら、ここはソ連としてはイラクを絶対に見捨てるべきではありません。
さて、シェワルナゼ外相ですが、彼はアメリカ寄りでした。国外(のみ)に目を向けるなら、もはや世界を制したアメリカに従うのは当然といえる選択です。イラクのクウェート侵攻が発生すると当時(なぜか)モンゴルに滞在していたベイカー国務長官をイルクーツクに呼んで会談を持ち、イラク対策で共同歩調をとると約束しました。はっきりってイラクを見捨てる可能性もございますよ、という宣言です。
しかし、ここでイラクを見捨ててしまう、あるいは、この湾岸戦争に関しソ連が何もできない、しかもソ連の中東政策の要である長年の同盟国イラクに対するアメリカの攻撃から、ソ連が同盟国を守ってやれないとなると、中東におけるソ連の権威はがた落ち、湾岸諸国からそっぽを向かれ、中東全域からソ連勢力が追い出されてしまいますが、それもやむなし、ということです。東欧革命のときは、まだゴルバチョフが複数政党制や改革の許可や催促を出した、ソ連のイニシアチブによるソ連勢力の後退、つまりはソ連の「恩恵」でソ連が東欧の権益を手放したわけだ、だから(逆に開き直って)ありがたく思え、という負け惜しみもいえますが、
今回の湾岸戦争でソ連が何もできなければ親分としてひたすら不面目なだけであります。
このような事態に当然反対するメンバーがいまして、ゴルバチョフの補佐官でのちのКГБの第一総局(国外諜報担当)が独立したСБРの初代長官となったプリマコフらは、ソ連の中東問題の第一人者で、フセイン大統領やアジズ副首相と個人的な知遇を得ていたこともあり、イラクに出向き、ソ連よりの解決を画策、これは当然アメリカの疑惑を呼び、ソ連国内の保守派からも、親西欧的な外交を非難され、シェワルナゼの立場は悪くなります。
保守派の過激発言も飛び出し、テレビでヤゾフ国防省は「ソ連軍の権威に逆らってはならない。各共和国の分離独立派は、駐留ソ連軍に対する撤退要求を取り下げるとともに、独自の軍隊創設の目論見を停止せよ…国家の防衛能力を維持するためには、あらゆる必要な手段がとられるであろうし、ソ連軍の将兵または基地に攻撃が加えられた場合には武器を使用するよう各部隊は命じられている」と発言。クリュチェフスキーКГБ議長は「連邦崩壊の危機が高まっている。狂信的民族主義が煽動され、大衆による秩序破壊や暴力事件が続発している…КГБは国内全域でその職権を行使し、国家を混乱に陥れようとする勢力に対する防壁となるであろう」と発言しました。
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保守派の三人
(左)ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ・クリュチコフ
Крючков, Владимир Александрович
1924−
КГБ議長、政治局員
(中)ボリス・カルローヴィチ・プーゴ
Пуго, Борис Карлович
1937-1991
内務大臣
(右)ゲンナジー・イヴァノーヴィチ・ヤナーエフ
Янаев,Геннадий Иванович
1937-
副大統領
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ゴルバチョフは保守派との連携を選びます。ー「運命は、自分の布石どおりに人間が動こうとしないときは、このようにまでその人間の心を盲目にしてしまうものなのである」ー、
と、マキアヴェリは書きましたが、まさにその通りです。12月2日腹心の改革派のバカーチン内務相を更迭して元ラトビアКГБ議長、ラト
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