ロシア連邦(1

〜〜 ソ連破壊とСНГ創立 〜〜

nextback

Yeltsin

ボリス・ニコラェヴィチ・エリツィン
Ельцин, Борис Николаевич
1931-2007

1961
年入党、1990年離党、1991年ロシア共和国大統領

ソ連を破壊しСНГ創立




 

 

 

Российская
История

Российская
История

 

 

 


 

 よいよ現代史に突入いたしました。現代の出来事というのはいまだどういう結果につながるのかわからず、当然評価も全く定まっておりません。さらに、チェスのグランドマスターの一手の意図するところが素人には全くわからないのと同様、プロの政治家の判断というものは素人には全くわからないことが往々にしてございます。長い年月が過ぎさって評価も定まり、当時は極秘だった資料も全て開示された後でならともかく、リアルタイムでの判断は素人には至難の技です。したがって、この稿以降での記述は少々自信がない部分も多々ございますが、やってみます。

 グラスノスチによる情報公開は、長らく衛星国家群であった東欧地域の民主化や、同盟国で中東地域へのソ連の橋頭堡たるイラクへのアメリカの攻撃、湾岸戦争に対し打つ手のなかった状況など、かつて覇権を誇った地域から総撤収を続ける弱体化したソ連の姿を白日の下に晒け出しました。

  この様子を見た、ロシア文化の源流を自認するウクライナ、リトアニア大公国時代の精強を忘れがたいバルト3ヶ国、カザフスタン地域をのぞき帝政ロシア時代末期に武運拙く戦い破れ、強制編入された中央アジア5ヶ国、ニコライ1世時代に服属されるも、チグリス・ユーフラテス文明の薫陶を受けたペルシャに近くオリエントの残照を受け、 ロシアよりはるかに古い歴史と文明を持つザカフカース3ヶ国などが、連邦おそるるに足らずと不穏な動きをみせます。

 また、現在のロシア国力、情勢からして連邦の維持はもはや不可能と肌で感じとっていたであろうエリツィンらが中心となったロシア共和国の連邦からの分離独立の動きが彼の権力掌握と立法により活発化し、ソ連の崩壊が目前に迫ってきました。

  アメリカ大統領ウィルソンが主張した民族自決の精神は、遅まきながら確実に世界へと広がっていったのです。第一次世界大戦の後、ヨーロッパの東に位置し、 ヨーロッパ中央での動きから遅れていたとされるハプスブルク家が支配する王朝国家オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊しました。ハプスブルク家の支配下にあった他の民族がその居住地域を自領土として独立し、経済・外交的に自立できたかどうかはともかく、自民族の代表者の統治する国家の誕生にこぎつけることができました。

 オーストリアよりさらに東に位置するロシアでも、ロマノフ王朝が革命で打倒され、ロシア各地で独立政治勢力が誕生ますが、新たにレーニンを首班として成立したボリシェヴィキは、「プロレタリアートは国境を越えて団結する」とのマルクス主義のイデオロギー、プロレタリアート国際主義を持ち出すことで、多数の民族が一つの国家を形成する大義名分をかため、一旦はバラバラとなったロマノフ王朝の支配領域をさらに、武力でもって統一することに成功、その後の第二次世界大戦の勝利もあってロマノフ王朝の権益の大部分をソ連に継承させることに成功しました。

 しかし、とどまることを知らない歴史の流れは、いわば「赤い王朝国家」ともいえるソ連にも押し寄せ、経済困難で目覚めた民族主義の爆発により、1991年、ソ連は崩壊し、共産党政権はその役目を終えたのです。直接時の政府を打ち倒し権力を握った臨時革命政権、ロシアのジャコバン党、ピューリタンたる、かくも永きにその命を保ったボリシェヴィキは、個人的な見解では、ロシアの工業化という一大事業を成し遂げた後、その生涯を閉じました。ゆくゆくはこの動きはさらに東の国、中国にも及ぶと僕は考えております。チベット、新疆ウイグル自治区などの分離独立が堅いのではないでしょうか。

 しかし、ソ連は大国です。この時点で3万発の核弾頭を有し、400万の軍を有する超軍事国家です。これが下手に崩壊して各地に軍事勢力が台頭し、万一外国勢力による干渉戦でも発生すれば、かつてのスムータ、革命後の内戦・干渉戦の二の舞となります。また、世界に新たに15の核保有国が誕生したら、万一その核兵器が内戦で使用されたら、もはや取り返しのつかないことになります。

 この危機に対してエリツィンがとった方法は、各共和国のソ連邦からの脱退を積極的に認めることでした。各共和国の独立を積極的に承認し、かつて革命後に発生した各独立民族・武装勢力の独立を認めなかったがためロシア全土に発生した内乱を回避し、その混乱に乗じた外国製力の露骨な介入を防ぐ。そのために、各共和国の疑惑を取り除くため、むしろロシア共和国が率先してソ連邦から脱退し、混乱を回避する、と。

  しかし、それまで外交・軍事・経済の面において連邦の庇護の元にあった共和国は連邦脱退により、不安を感じるであろうから、ロシア・ウクライナ・ベラルーシが音頭をとって独立国家共同体を成立させ、ソ連時代とは比ぶべくもありませんが、ともかく緩やかな旧ソ連圏連合を作りだし、連邦時代の遺産を救えるものは救おうと。


 この方法は大幅なソ連時代の権益後退は避けられませんが、第二次大戦よりも犠牲が大きかったといわれる革命後の内戦・干渉戦の再現よりははるかにまし、それがエリツィンの結論だったのです。むろん、エリツィンがそこまで熟慮して行動したかどうかは、すでに亡くなられた今となってはわかりません。しかし、少なくとも全盛期の彼には、時代の流れを察知し、それに便乗する、政治家としてもっとも大事な嗅覚がそなわっておりました。

 もちろん彼のご乱行を知らないわけではございませんが、「春に鴬鳴き、夏に蝉鳴くが如く」でして、安定した時代にはそつのない人が権勢を揮い、動乱の時代には風雲児が大車輪の活躍をします。時代が人を呼び、人が時代を切り開くのです。運命の女神は、歴史の針を進めようとする自らの意図を実現するとき、人物も、ヴィルトゥも十分に備わった人物をすくい出し、大舞台へと据えると申します。この大混乱期のロシアでは、エリートタイプのゴルバチョフでも、能吏タイプのプーチンでもない、ただ壊し屋エリツィンのみが事態 を切り開くことができたと確信いたします。

  この時期はロシアにとって試練のときでした。このロシア経済最悪期、あの誇り高いロシア人が僕に向かって「もうロシアは外国の植民地になってやっていくしかないんじゃないの」と言ったことがありますが、その人の言葉が当時のロシアの苦境を十二分に表現していたのではないかと思います(今となってはその人はちと早とちりしすぎたのではないかと言う感も漂いますが)。ともかく、エリツィンの事績を見ていきましょう。


        〜 1. エリツィンの生い立ち 〜

 エリツィンは19312月1日、スヴェルドロフスク州タリツァ地区のブトカ村で生まれました。両親共に代々百姓の出だったそうです。赤ん坊のエリツィンが村の司祭から洗礼を受けたとき、後の彼の一生を象徴するような以下の出来事が起こったということです。

 ーわたしの番がまわってきたのは昼食の後で、司祭はもうかろうじて立っている状態だった。母のクラウジヤと父のニコライが私を司祭に渡し、司祭は私を桶に つっこんだはいいが、引き上げるのを忘れて、何かのことで見物人と口論を始めた…両親はこの洗礼桶から少し離れたところにいたので、初めは状況がよくわからなかったが。だが、状況に気づくや、母は大声をあげて桶にかけより、水底の私を捕まえて引き上げた。私は人工呼吸で一命をとりとめたー

 小学校時代(ロシアは11年制です)は大変な暴れん坊だったようです。成績はよかったものの、第7学年では問題のある女教師と揉めごとを起こし、学校側に特別委員会を設置させてその教師を解任させるも、自分の成績も規律の欄のみ不可をもらいます。第8学年では、あるとき武器庫から手榴弾を盗み出してトンカチで叩いたものですから当然爆発、指が壊疽を起こして手術で二本の指を切断しました。また第9学年終了後の夏休みではヤイヴァ川の水源を探しにいこうと仲間と出かけ、水源を探り当てたものの帰り道でさらに途中で出くわした洞窟探検で迷い、一ヶ月さまよった後に救出されるなど、かなりな腕白ぶりを発揮しておりました。

 そしてウラル工科大学の建築科に入学、バレーボールと学業に両方励みすぎてこの時心臓を悪くしました。大学卒業後はウラル重管建設トラストへ派遣され、 建築現場の12の業種を一年で一通り覚えた後に現場主任へ就任、その後主任技師、入党、建設本部長、32才でコンビナートの責任者、州委員会の建設部長となります。

 州委員会建設部長を7年勤めた後、州委員会書記に選出され、一年後1976年のモスクワ研修の際に、平の書記から第二書記を飛び越していきなりスヴェルドフロスク州委員会第一書記(州の最高権力者です)に抜擢されます(この時ブレジネフと面会しました)。また、このころ後に仇敵となる当時スターヴロポリ州第一書記だったゴルバチョフと知り合いました。また、この時期ニコライ2世とその家族が軟禁されていたイパーチェフ館を、本人が自伝で語るところによれば、モスクワからの「秘密の指令」なるもので取り壊します。

 さて、10年間州第一書記を勤めた後、1984年ソ連共産党中央委員会書記(建設問題担当)に抜擢されます。エリツィンは家族をあげてモスクワに引越 し、中央政界に進出することになったのです。1985年にはゴルバチョフが書記長となり、モスクワ市当委員会第一書記だったゴルバチョフの政敵グリシンの 後任として、彼の後釜に座ります。1986年の27回党大会ではゴルバチョフはグリシンを政治局員から解任、エリツィンは政治局員補となり、ソ連政界の最高位まであと一歩のところまで上り詰めます。

 しかし、エリツィンは10月の中央委員会総会でペレストロイカの遅れを非難、リガチョフを名指しで批判したのです。実際問題として、ほんとうに満足に改革を進めていこうと思えばリガチョフらの大物テクノクラートの協力が不可欠なのですが、こういう緻密なテクノクラートというものは裏返しで往々にして大量出血確実な極端な改革をきらいます。ゴルバチョフにとっては痛し痒しと言うところでしょうが、ペレストロイカの非難はソ連の最高権力者ゴルバチョフ書記長への非難でありますから、ゴルバチョフは1987年モスクワ市党第一書記からエリツィンを解任、 1988年には政治局員補からも解任します。エリツィンの自伝『告白』によるとゴルバチョフはエリツィンに対し「君はもう二度と政界には復帰させないからね」といわれたといいます。しかし、ゴルバチョフは配慮を見せ、閑職とはいえエリツィンを建設部門の職につけました。

  しかし、そんなことでエリツィンの気持ちが収まろうはずもなく、エリツィンはロシア史上初の自由選挙である19903月のロシア共和国の人民代議員選挙に討って出、様々な妨害を受けながらも57.38%を獲得し当選、2位のルイシコフ前ソ連邦首相の得票率が17.29%ですからまさに圧勝でした。

 ロシア共和国最高会議議長に就任すると、「国家主権宣言」を発表、ロシアの政治的・経済的・法的な完全主権を謳い、連邦離脱権を留保することを明言したのは先ほどのべたとおりです。1991年7月10日、正式にロシア共和国大統領に就任し、革命以来初めて、公には宗教を認めないソ連邦内で、公職者の就任式に聖職者であるロシア正教会のアレクシー2世総主教を招き、祝福の言葉を受けました。

  就任演説では、「国家は国民が幸福となって初めて強いものとなるという原則を忘れたため、巨大な社会的実験の悲劇的結末がもたらされた」「行動が断固としたものでなければ、中途半端な措置しかとれなければ、改革は成功しない」「国民が選択した路線は帝国主義的野心とは無縁である。ロシアは世界各国と誠実で文化的な関係を築く。偉大なロシアは立ち上がる」と述べました。つまりは、共産主義の否定、ほとんど破壊と呼んでかまわない決定的改革、そして(ことによると帝政)ロシアの復活という持論を鮮明にしました。


       〜 2. 八月クーデター収拾 〜

  先ほども述べましたが、ソ連邦の権限を削りすぎる新連邦条約は保守派の反発を呼び、条約の調印を阻止しようと保守派はクーデターに走ります。連邦条約の調印予定を翌日に控えた1991819日早朝、休暇中のゴルバチョフ大統領が「健康上の理由で執務不能」に陥り、ヤナーエフ副大統領が大統領代行に就任、国家非常事態委員会が全権を掌握したと国営放送が伝えたのです。ソ連軍トップの国防相のヤゾフ、КГБ議長のクリュチコフ、内務省のプーゴらによるクーデタ計画でした。

  モスクワの要所要所には戦車や装甲車が配置され、首都はものものしい雰囲気に包まれましたが、ロシア共和国首脳らの行動は規制されておらず、エリツィンは ロシア共和国最高会議ビル(通称ホワイトハウス)に立てこもりました。ビルを戦車隊が包囲しましたが、数千人の市民が現場に駆けつけ、人垣を作って戦車を阻みます。そこへ正午頃、(治安部隊の発砲はないとの情報を聞いたという噂もありますが)エリツィンがビルから現れ、戦車の上に飛び乗り、戦車兵と握手して演説を始め、「今回の政変はクーデターだ。決して認められない」とゴルバチョフ大統領の復帰を呼びかけ、国民にゼネストを呼びかけました。さらに、ソ連人民代議員大会が開催されるまでの間、ロシア共和国領内のソ連軍とКГБの全ての部隊を同共和国の管理下におくとの大統領令を出しました。





file:///home/nyaa/public_html/yeltsin-detail.jpg


戦車の上でクーデター反対を訴えるエリツィン





 8 20日、ホワイトハウスを守る市民とクーデター派の部隊のにらみあいは続き、夜になってクーデター部隊が戦車を先頭にバリケードを破り、ビル内に突入しようとしました。市民達は人垣を作って火炎瓶や小銃で応戦し、何台かの戦車を炎上させます。クーデター部隊は強行突破を断念します。

 21日午前、クーデターの首謀者クリュチコフКГБ議長、ヤゾフ国防相らが辞任、プーゴはピストル自殺、国家非常事態委員会の解体が発表されました。エリツィンは委員会メンバーの逮捕をロシア共和国検察庁に命じ、クーデターは未遂に終わります。


    〜 3. ソ連消滅―エリツィンのクーデター 〜

 さて、エリツィンに「救出」されたゴルバチョフですが、軟禁先からモスクワに帰ってきたとき、「別の国に帰ってきたようだ。」とコメントしたといいます。それほど事態は急速に進んでいました。92日、クーデター未遂事件後のソ連の将来を決める臨時人民代議員大会が開かれ、新連邦条約を修正の上、早期に締結するとともに全共和国の参加する経済協定への調印を呼びかけました。

 また、この臨時人民代議員大会は、新憲法策定までの移行期における国家機構を定めた「移行期のソ連国家、権力、行政機構に関する法律」を採択しました。 これによると、1977年のブレジネフ憲法以来国家権力の最高機関とされた人民代議員大会は廃止され、ソ連邦の行政機関である連邦内閣も解体されました。 かわりに、共和国代表からなる共和国会議を上院とし、地域代表からなる連邦会議を下院とする二院制で両者が共同して憲法改正、連邦への新国家の加入の承認、宣戦と講和などを決定するが、その他の事項の決定は共和国会議の優位性が規定されました。
 
 さらに、共和国の国権の最高機関たる最高会議は、連邦最高会議の採択した法律が共和国の法律と食い違ったときは、共和国領内でその効力を停止できるとし、共和国がソ連邦の上位に立つことが認められたのです。ソ連邦大統領の権限はほとんど奪われ、ソ連邦大統領は各国指導者とともに新しく国家評議会を構成 し、この評議会が全共和国共通の利害にかかわる内外政策を共同決定することになりました。どの共和国も代表していないソ連邦大統領はただの国家評議会の議長役、進行役になってしまったのです。結局この国家評議会でゴルバチョフ連邦大統領があくまで反対していたバルト三国独立問題は、共和国中最大の力とリーダーシップを持っていたロシア共和国大統領エリツィンの強力なごり押しで独立を承認されました。経済・外交・軍事的な自立はどうだか知りませんが、晴れてバルト三国は独立を達成したのでした。

 かくて新連邦条約調印を進めるべくゴルバチョフ連邦大統領は調整を開始したわけですがグルジア、モルドヴァ共和国は条約への調印を拒否、同じく条約調印を拒否したウクライナでは199112月1日、国民投票で完全独立論者のクラフチュク最高会議議長が大統領となり、投票総数の90.85%が独立に賛成という事態がもちあがりました。もちろんロシア共和国に比べるべくもありませんが、他の連邦内の共和国中では圧倒的な大国ウクライナが調印しない新連邦条約など骨抜きも同然です。さらにアゼルバイジャンは、同共和国中アルメニア系住民が多数を占めるナゴルノ・カラバフ自治州独立問題でアルメニアと紛争が激化、アルメニアとともども代表を評議会に送らず、新連邦条約には暗雲が立ちこめてきました。

  ところがここでエリツィンがかましてくれました。密かにエリツィンはブルブリス国務長官などを通じてウクライナ、ベラルーシと「スラヴ連合」の構想に付いて話し合っていたのですが、エリツィン・ロシア大統領、クラフチュク・ウクライナ大統領、シュシュケビッチ・ベラルーシ大統領の三首脳は、1991 128日、ベラルーシ共和国ブレスト近郊のベロベーシの森の別荘で2日間の会談の後、突如「独立国家共同体」の創設を宣言したのです。奇しくも、ロシア 社会民主労働者党(ソ連共産党の前身)の第一回結党大会が行われたのもベラルーシでした。




belovezh


ベラヴェージ会議




 共同体創設に関する協定は、三国間で主権の相互尊重、内政不干渉、武力不行使の原則に立って経済、文化、環境保全などで協力、ミンスクに置かれる調整機関で対外政策、共通経済での発展をはかるというものでした。つまり、独立国家共同体は、かつてのソ連邦のような共和国の上に立って統制指示する組織でなく、横並びの加盟国の調整機関という位置付けです。

 すわ、ソ連邦から主要3ヶ国がごっそり脱退したのか、というところですが、実際はそれどころでなく、協定は「三共和国は1922年の連邦条約調印したソ連邦設立国として、国際法上の主体および地政学的現実としてのソ連邦が消滅することを確認する」、「旧ソ連邦の諸機関の活動は停止される」と、ソ連邦の消滅を宣言したのです。軍隊こそ動かなかったというもの、話し合いが現段階でのソ連の最高指導者ゴルバチョフの預かり知らぬところで極秘で行われた点、ソ連邦の消滅という、決定された事項の大きさという点からいって、これの会議はエリツィンのゴルバチョフに対するクーデター、ソ連邦に対するロシア共和国のクーデター、といっても過言ではございません。

  独立国家共同体3ヶ国を代表してエリツィン・ロシア共和国大統領がナザルバエフ・カザフスタン大統領同席の元、ゴルバチョフ連邦大統領に合意文書に付いて説明しました。ゴルバチョフはもちろん反対で、この件を国民投票にかけることを主張しました。しかし、ナザルバエフ大統領は事前に相談もなく共同体が設立されたことを批判しつつも、実際問題としてスラヴ諸国にエネルギー、工業製品、技術を頼らねばならないわけで、独立国家共同体への参加をいち早く表明しました。

  中央アジアの盟主カザフスタンの独立国家共同体加盟で他の4ヶ国も、トルクメン共和国の首都アシハバードで開かれた中央アジア五ヶ国首脳会談で共同体参加の用意があると表明、モルドヴァやザカフカース3か国のアルメニア、アゼルバイジャンも参加を決定、1212日カザフ共和国の首都アルア・マタで開かれたソ連邦の共和国の11ヶ国が集まった会談では独立国家共同体の初期三メンバー国に加え、他の8ヶ国も平等の条件で共同体に参加、グルジアもオブザーバーを送り、参加の用意があると表明しました。

  かくて、このアルア・マタ会議は11の共和国による独立国家共同体の創設を決め、ソ連邦の消滅を宣言し、ゴルバチョフ連邦大統領にソ連邦と連邦大統領職の廃止を通告しました。かくしてエリツィンのソ連邦に対する事実上のクーデターを起こされ、治めるべき連邦を消滅させられ、裸の王様にされたゴルバチョフは19911225日、国営テレビを通じて演説し、「独立国家共同体創設によって形成された状況に鑑み、大統領職における自己の活動を停止することになった」と述べ、辞任を表明しました。

  直後にクレムリンの大統領府に掲げられていたソ連国旗が静かに降ろされ、代わってロシアの三色旗が掲揚されたのです。かくしてソビエト社会主義共和国連邦は、設立から69年、その命を終えました。ゴルバチョフ元連邦大統領は、車でクレムリン構内を一周してから去っていったということです。


    〜 4. 市場経済への移行と新生ロシア誕生 〜

  いよいよ独立国家共同体が誕生し、共産主義を捨て、新生ロシアがなったわけですが、内政としてエリツィンはロシア国家を地方分権的連邦に改変すべく突き進みます。19911225日、ソ連邦解体とともにロシア共和国はロシア連邦と改名します。続く1992331日、ロシア連邦を構成する20の共和国 (のちチェチェン・イングーシ共和国がチェチェン共和国とイングーシ共和国に分裂し共和国数が21に増えます)、6の地方、49の州、1の自治州、10の自治管区、モスクワとサンクトペテルブルクの2特別市、88の地方行政単位のうち、タタールスタンとチェチェン・イングーシ共和国は態度を保留しましたが、あとの86の共和国はロシア連邦条約に加盟しました。

 内容は、かなり共和国に自国おける国家権力の権限を認めたもので、資源の所有・利用・管理は連邦と共和国の合意、連邦の各共和国に対する武力行使は事前の合意が必要、例外は暴力を伴う大規模な無秩序状態の阻止に限られます。共和国の憲法・法律と連邦の憲法・法律の適合性、文化・科学・教育・体育全般の問題、社会保障、共和国の税金徴収に関する共通原則の制定、などは連邦と共和国の共同管轄です。連邦の国家権力の管轄下に属する事項としては、外交政策・統一市場の法的基盤(通貨単位・通貨発行・関税・財政など)・ 国防関連、その他度量衡、気象業務、勲章と名誉称号、などです。

  しかし、ソ連邦の崩壊はそれまでソ連の重圧で押さえつけられていた民族紛争の火種を開放することにもなりました。1990年のルーマニア系住民が大多数を占めるモルドヴァの主権宣言に反対して、ドニエストル川東岸に住むロシア人が19909月に「沿ドニエストル共和国」の創設を宣言、ロシア人とモルドヴァ人が衝突し、ロシア軍の介入を招きます。19928月に停戦合意がなされましたが、この地域への影響力を確保したいロシアは軍を駐留させつづけました。

 中央アジア5ヶ国のタジキスタン共和国でも1992年共産主義勢力とイスラム勢力との間で内戦が勃発します。19929月、イスラム系の野党の圧力でナビエフ元タジキスタン共産党第一書記が辞任し、イスカンダロフ・タジク最高会議議長が大統領代行に就任すると、ナビエフ派はタジキスタン共和国の首都ドゥシャンベを攻撃、以後この内戦は1997年までもつれ込みます。この件に巻き込まれ、1998年、国連タジキスタン監視団の一員だった我が国の秋野豊政務官がタジキスタンの山中で殺害されたのはまだ記憶に新しいところです。

 ザカフカース三ヶ国の一つグルジア共和国でも問題は噴出します。まず、グルジア内のイスラム系が多数を占めるアブハジア自治共和国(ラヴレンチー・ベリヤの出身地です)も1992年7月に主権宣言を出しましたが、 これを認めないグルジア共和国軍がアブハジア自治共和国首都スフミに侵攻、国連の仲介で停戦が実現します。さらに同じグルジア共和国内の南オセチア自治州 は1990年末にオセット人の住む北オセチア自治共和国への編入を要求しましたが、グルジア共和国はこれを認めずグルジア軍が出撃、これもまた1992 6月に停戦に合意します。しかし、グルジアに隣接する地域で起こった最大の紛争が後に述べるチェチェン戦争です。

 こういった民族主義の爆弾が炸裂する中、旧ソ連地域の安定に力を尽くすこともできず、なりふりかまわず開かれた連邦条約成立の後の第6回人民代議員大会では、旧憲法の改定と新国家に対する新憲法草案に関する議題があがりました。旧憲法に対する本質的な修正がつぎつぎと施され、「ロシア連邦ーロシアはそこに歴史的に結合した諸民族によって創設された主権連邦国家である。ロシア憲法体制の浮動の基礎は、人民権力、連邦主義、共和制的統治形態、権力分立である。ロシア連邦とロシアという国名は同義である。」

 さらに、新憲法の起草作業も進められました。最高会議の憲法委員ルミャンツェフ責任書記の案(公式案)、シャフライ法制担当国家評議会委員の案(大統領案)、サプチャク・サンクトペテルブルク市長やポポフ・モスクワ市長の案(民主改革運動案)、ロシア共産主義労働者党の案など、五つの憲法草案が準備され、けっきょく公式案のみ審議の対象となりましたが、公式案の一般原則ロシア連邦憲法の「コンセプトと基本命題」として採用されました。

  公式案は大統領の権限を強化し、大統領の権力による混乱期の乗り切りをはかろうとしていましたが、議会の強力な権限を認めておりました。連邦会議(上院) と国家会議(下院)からなる新連邦会議は最高会議と呼ばれ、連邦の最高の代表機関で唯一の立法機関であると定められました。また、連邦全土に置ける連邦法の執行を監督し、連邦の内外政策と防衛政策の基本方向を決定します。

 一方で大統領は国家元首ではなく、最上位の公務員、執行権の長です。連邦政府の活動を指導し、閣僚会議で議長を勤めますが議会の解散権はありません。しかし、議会は故意による重大な憲法違反があった場合、大統領を罷免する権限を持ちます。大統領の罷免は下院議員の1/3で提起され、憲法裁判所が罷免の事由があると判断すれば下院の2/3以上の多数決で大統領は罷免されます。エリツィンは当然この公式案の内容に不満でした。

 さて、経済でありますが、1997年のロシア統計国家委員会の資料によると、エリツィンが権力を握った1992年はGDP成長率(以下全て前年比)-14.5%、消費者物価上昇率2510%(251倍)、公定歩合80%と、見た目にはロシア経済は破滅に瀕しておりました。これを救うべく、エリツィンはなりふりかまわない資金繰りに走ります。旧敵国アメリカが戦後作った、西側が世界経済を運営するための基本体制、ブレトンウッズ体制に膝を屈してでも、IMFへの融資打診を行いました。

  ブレトンウッズ体制においては、ある国が輸入超過などで外貨が不足し不況に陥った際、極端なデフレ政策をとり、さらに関税をかけるなどして国際収支のバランスをとろうとします。すると、確かにその国の輸入量は減少するかもしれませんが、そうなると、今度はその国に製品を輸出することで儲かっていたまた別の 国の輸出が減少し、今度は別の国まで不景気となります。

 これが繰り返されると、ある国で起こった不況が世界に伝播することとなり、世界に不況を広めてしまうので、そうなる前に、世界が前もってお金を出し合っておいて(そのお金を管理運用するのがIMFです)、ある国が不況になるとその国にお金を貨し込んで、なんとか収入のバランスを戻し、無闇なデフレ政策などやめてもらう、というやりかたをとります。IMFに資金援助を仰ぐというのは、 旧ソ連時代のセフ(コメコン)の共産主義的世界経済運営方式の失敗を公に認めることです。しかし、もはやこれ以外ロシアを救う道はないとエリツィンは判断したので しょう。

 さらに、19924月の主要7ヶ国蔵相・中央銀行会議でのСНГ諸国への240億ドルの支援決定(実際はロシアの債務返済能力の不確かさや国内政治の不安定化を理由にかなりの部分が停止されました)、外貨獲得のために現時のロシアで唯一の国際競争力のある工業製品、兵器の輸出だということで、強力な国有武器輸出会社「ロスバアルジェニエ」設立なども行いますが、結局頼りになりそうなのはIMFからの融資のみでした。

 さて、社会主義体制下での国家管理経済から、資本主義の市場経済への大転換ですが、この世界初の試みを、エリツィンは当時もっとも改革思考が強いとされた当時35歳の若手経済学者、エゴール・チムーロヴィチ・ガイダルに委ねます。もっとも、エリツィンはリガチョフらの古参大物テクノクラートらと激しく対立したので、彼らの助力は不可能な状態でしたから、若手と組む選択以外なかったのです。

 したがって、若手で経験がないという意味では斬新な発想が期待できますが、経験不足ということで実際にどうなるかやったことがない上(経験の力を借りないとどうにもならないことなんて星の数ほど転がっています)、ベテランの助力もないから実行力に関してはなはだ不安、最初から雲行きの怪しさが漂っておりました。国の危機なんだから喧嘩している場合ではないと思うのですが、個性が強すぎて常に分裂傾向というのは、それはロシアの長所の裏返しの欠点です。こういう状態をまとめるのは強力なリーダーシップが必要なのか、なんともわかりません。




egol


エゴール・チムーロヴィチ・ガイダル
Гайдар, Егор Тимурович
1956-


MFの指導の下、急進的価格自由化を実施






アナートリー・ボリーソヴィチ・チュバイス 
Чубайс, Анатолий Борисович
1955−

国有企業の民営化(払い下げ)を担当




 ガイダルは1978年モスクワ大学経済学部を卒業、モスクワ大学大学院ヘ進み、シャターリンの指導を受け(ゴルバチョフ時代、ソ連で初めてマクロ分析の手法を用い、急激な民営化とソ連邦内の各共和国に経済的実権を与え、500日間でロシアが市場経済へ移行するという、シャターリン・ヤヴリンスキー案を立案した人です。)、博士号をとった秀才です。

 エリツィンは壊滅状態かつ資金難のロシア経済を救うため、IMFに融資を打診しておりました。1995年〜1997年の間の計101億ドルの融資許可の 条件としてIMFが持ち出したのが、アメリカ流の非常に厳しいインフレ抑止最優先、ロシア財政の厳しい均衡財政(とにかく赤字を出すなということです、かつての日本のドッジ・ラインのようなものです)、国営企業の強制民営化です。ガイダルはベラルーシの軍人家庭出身で、サンクトペテルブルクに移りすんでレニングラード技術経済大学を卒業したアナートリー・チュバイス(つまり、若手経 済学者のサンクトペテルブルク派総元締めです)、ピョートル・アベンら若手経済学者を集めてガイダル・チームを結成しました。

 彼らはIMFの指導の元、19919月モスクワ郊外のアルハンゲリスクにある、「第十五別荘」と呼ばれたロシア共和国の別荘にこもり、IMFの勧告に従い、価格自由化(ガイダル担当)と企業民営化(チュバイス担当)の二本柱からなる包括計画を作成します。エリツィンにこれを認められ、ガイダルは経済担当副首相、チュバイスは国家資産管理委員会議長、アベンは対外経済関係委員会議長に任命されて これを実行に移すことになりました。

 ガイダリズムの第一弾として1992年1月2日をもってまず決行されたのが価格自由化です。消費財の90%、生産財の80%、について価格を自由化、例外はパン・牛乳・乳製品・砂糖・光熱費・ガソリンといった庶民生活に影響の大きな基礎物質・サービスのみです。ルーブルもいきなり変動相場制に突入、財政赤字圧縮の一環として国営企業も補助金40%カット。そして価格自由化後に予想されるハイパーインフレに備え、市中民間資金を徹底的に吸収しインフレを押さえつけるべく公定歩合80%を決行したのです。さらに、ロシア内の物不足を解消するため、輸入食料品の関税をほぼ廃止します。

  関税がほぼ全廃ですから、市場に西側から、食料品や日用雑貨を中心とする輸入品がなだれ込み、ソ連時代の物不足は一気に解消されました。が、なにせ本来モノが少ないところに価格完全自由ですから公定歩合80%の効果を吹き飛ばして一気に物価があがり、最初の 一ヶ月で消費者物価指数は350%になってしまったのです。いきなりの変動相場制突入によるルーブルの暴落でルーブルが弱っては輸入された外国製品が割高になってしまい、せっかくモノが流通したところで庶民には高根の花となってしまいます。そこで、さらに93年1月の東京サミットで決まったルーブル安定化基金を使ってドル安を維持させ、インフレの止まらぬ国内での産品よりも本来高価なはずの輸入品のほうがロシア製品より割安になるという状況をつくり、なんとか外国からの輸入品で物不足を解消しました。しかし旧ソ連の状態がまだ続き、見た目も質も悪くただでさえ競争力のない製品しか作れない国内の製造業は壊滅的になります。 このころ、あるドイツ系ロシア人(エカテリーナ2世の時代にヴォルガ河流域に植民してきたプロテスタントのドイツ人の子孫ということでご本人もドイツ語が達者でした)の方のお話で、親戚が、現金が必要になったのでアパートを売り払ったところ、すぐに猛烈なインフレがやってきて大変なことになったといっておりました。

  さらに、旧ソ連では工業製品の生産体制が各共和国で分業になっておりました。それまで旧ソ連はエネルギー・工業基礎資源部門の機械・設備・器具・部品などはウクライナやアゼルバイジャンで生産されてしまいましたが、これらの国を独立してしまった以上、もはや製品は輸入品として買い上げるしかありません。しかも、エリツィンは事前に何の相談もなく一気に独立国家共同体を立ち上げてしまったため、CIS域内経済の流通機構などが全く整っておりませんでした。結果として、特にアゼルバイジャンは、石油産業用に生産している材料や技術製品の87%を供給していましたから、独立早々で台所事情が苦しく、ナゴルノ・カラバフ自治州をめぐりアルメニアと紛争に陥っていましたから工業製品の値段をつり上げ、それが物価に跳ね返ったのです。また、公定歩合の異常な高さは、いくら資金繰りに困っても利息が払えず中小企業は融資を受けるに受けられず、倒産が相次ぎます。

 数ヶ月もしないうちにこのガイダル・チームの「ショック療法」は国民を痛めつけるだけではないのかという批判が噴出します。29日にはクレムリン前のマネージナヤ広場では、「価格自由化が正確を苦しくした」「年金生活者を殺すつもりか」などのプラカードを掲げる12万人の集会が開かれました。エリツィンは3月にガイダルを第一副首相兼財務大臣に任命し、ガイダルを庇う姿勢を見せますが、4月の第6回人民代議員大会でハズブラトフ最高会議議長らの厳しい批判を浴び、政府内部でも軍人あがりのルツコイ副大統領などは、ガイダル・チームのことを「ピンクのズボンをはいた 子供たち(世間知らず)」であると酷評、朝野に強力な批判があがるようになりました。

 5月にはエリツィンはガイダルを首相代行にすえ、かつてガス工業相を務めたソ連時代からの産業界の大物、つまりは穏健保守で天然ガス独占企業体ガスプロム社長チェルノムイルジンをエネルギー担当相、副首相に任命することで議会との妥協をはかろうとします。ハズブラトフらはガイダルらの法案を議会で次々と葬り去り、結局経済改革はインフレだけが強烈にすすむという弊害のみ目立つこととなりました。しかし、6月にはエリツィンはさらにガイダルを首相代行に任命しあくまでガイダル路線を貫徹させることを示します。

 そして、価格自由化につづく経済改革第二弾として、819日、エリツィンは前年の8月クーデター粉砕1周年記念のテレビ演説で、国有・国営会社の民有・ 民営化(株式会社化)政策を打ち出しました。10月1日から全国民一人当たりに額面1万ルーブルの「株式引換券(バウチャー)」の無償発給を始めるというのです。ー「必要なのは一握りの百万長者ではなく、何百万という資産保有者である。このバウチャーは自由市場経済への切符である。われわれが資産家と企業家をより多く持てば持つほど、より早くロシアの繁栄をもたらすことができよう」ーとエリツィンは語りました。

  この株式引換券、民営化小切手はビタリー・ナイシュルという経済学者が地下出版した本に掲載されていた方法です。ロシアより先に市場経済を進めた東欧の例などを参考にしながらチュバイスらが民営化の方法をさぐっていました。しかし東欧ではロシアと異なり、第二次世界大戦後共産主義を導入し、しばらくして私有財産が国有財産として接収されたわけで、老齢化が著しいとはいえ昔の所有者が健在な場合が多く、証拠となるドキュメントを提出できればその原則として返却が可能でした。また、共産主義化に後に設立された企業・工場などに関しては、ポーランドなどでは対象企業を入念に選び、金銭による入札を実施していました。

 しかし、ロシア革命後70年以上がすぎ、昔の所有権を主張できる生存者が事実上存在せず返却は不可能、中堅・大企業だけでも25千社を民営化する必要のあるロシアでは年間150社づつ入札しても150年もかかるというわけで、東欧の例は参考にすることはできないという結論が下されました。そこでチュバイスはこのナイシェルの方法に着目し、結局ロシア国民全員に国有資産引換券をわたし、基本はそのバウチャーを民営化する企業の株券と交換する、あるいは換金や投資信託の預託も可、として一括して国有資産を国民に返却する、という方法をとったのです。しかし、当のナイシェルはそのとき自分の提案した案に否定的となっていたとのことです。

 翌年2月までには国民の97%がバウチャーを受け取り、民営化の対象企業は順次株式会社化され、バウチャーとの交換のために一定比率の株の公開が義務付けられました。チュバイスいわく、46千社を越える企業が民営化されたとのことです。しかし肝心の大企業の民営化は手つかずのままでした。

 価格自由化で低迷するロシア経済の起爆剤として期待されたバウチャー制度はほとんど効果をあげず、結局1992年の消費者物価上昇率は2510%になり、賃上げ率は1300%でしたから、給料50%カットと同じことです。エリツィンは12月の第7回人民代議員大会でガイダルの首相承認を求めますが、議会は否決、やむなくチェルノムイルジンを首相に据えます。
 
  こうした議会の攻勢に対して根回しなどの細かい芸当が得意でないらしかったエリツィンは大統領権限の強化、議会に対する優位獲得によって状況を突破しようと考えます。同じ第7回人民代議員大会で、ガイダルを解任し、チェルノムイジンを首相に据えた代償として、国家を主導するのは大統領か議会かを問う国民投票を呼びかける提案をします。議会は国民投票には賛成したものの、国民投票実施権を背景に国民への質問は、1.大統領を信任するか 2.1992年以降の大統領・政府の社会・経済政策を指示するか 3.大統領の任期以前の改選が必要か 4.議会の任期以前の改選が必要か の4問に絞ることとし、1993411日を期して国民投票を行うことを決定しました。
 
 ところが国民投票の実施細目を定めるべく開かれた第8回臨時人民第義委員大会は一転して国民投票の中止を決定します。理由は、「国民の間に政治的合意がない現在、国政の重要課題に付いて投票を強行することは、連邦の分裂的傾向を助長する恐れがある」「経済混乱の最中に、多大の費用とエネルギーを用いて大規模な投票などするべきではない」ということでした。

 議会の寝返りに怒ったエリツィンは、1993330日、突然テレビ演説を行い、「ロシア市民へのアピール」を発表、議会や憲法に拘束されない大統領の超法規的地位とロシア全土の直接統治を骨子とする「特別統治令」に署名したと発表したのです。当たり前ですが議会は猛反発し、憲法裁判所の違憲判決を得て急遽開催した第9回臨時人民代議員大会で大統領の罷免を採決にかけます。ルツコイ副大統領もエリツィンのテレビ演説を憲法違反と断定、すぐさま大統領批判陣営に加わります。

 結果は72票差で罷免に必要な2/3に届かず、エリツィンは危うく罷免を逃れました。この件でエリツィンも意見を軟化させ、憲法違反的な部分を削除した「権力の危機克服までの執行機関の活動について」という大統領令を324日文章で公開しました。結局ゾリキン憲法裁長官 の斡旋もあって、第9回臨時代議員大会は、先に決まっていた4項目の国民投票の実施を決定すると決議し閉会しました。

 国民投票2日前の1993423日、エリツィンは後出しじゃんけん的に自ら構想した新憲法の基本原則を発表して国民の支持を求めました。国民投票の結果は、1. 大統領を信任するか については58.7%で、信任。エリツィン大統領の勝利。 2.1992年以降の 大統領・政府の社会・経済政策を支持するか については53%で支持、エリツィン大統領の勝利 3.大統領の任期以前の改選が必要か については必要なし、でこれもエリツィン大統領の勝利。 しかし、4.議会の任期以前の改選が必要か については、これは必要なし、で議会の勝利でした。

  エリツィンかなり有利ながらも痛み分け的な結果ですが、エリツィン大統領はこの結果にたいしてテレビ演説で「勝利宣言」を発表します。そして国民投票に先だって(後出しじゃんけん的に)新憲法の基本原則を明らかにしていたということを踏まえ、この国民投票の結果は新憲法を国民が支持した何よりの証拠だと主張しました。こうして、現議会が数次にわたって草案を作り、199211月には第6次の草案まで示され、19931月には最高会議で審議が始まっていた公式の憲法草案を無視しさり、現在の議会制度の廃止を盛りこんだエリツィンの私案である新憲法草案を、現議会とは全く関係のない、連邦構成体の代表を集めた大統領の私案を練り上げる憲法協議会を65日に招集し、10日まで最終草案を確定するという大統領令に署名したのです。エリツィンはこの新憲法草案 を国民投票にかけるか、憲法協議会を正式な憲法制定議会に格上げするか、解散選挙後の審議会で採択する構想を表明しました。

 ここまでコケにされた議会は当然猛反発です。3年越しの憲法作成の努力が完全に無視され、国民投票や議会を経ずに側近グループのみで憲法をやっつけようとする姿勢に 怒り心頭の議会は、58日「ロシア新聞」などを通じて新憲法草案を発表し、731日には最終案を発表します。結局議会案と大統領案の二つの憲法案が並立したわけですが、なんだかんだ言っても現行憲法では憲法改正もしくは新憲法採択を承認できるのは人民代議員大会のみです。エリツィンは議会との仲がここまで泥沼化したからには、もはやエリツィン憲法の採決は不可能であると考え、改選の必要性を強調し、8月末には議会に対し自主解散を促す書簡を送りましたが、議会の反発を強めただけです。

  議会と対立したエリツィンは地方行政単位の支持を求めようとしました。すると地方はこれを千載一隅のチャンスとして州や地方の権限を共和国なみに引き上げようと図り、エリツィンの古巣スベルドロフスク州のロッセリが「ウラル共和国」を宣言(ロッセリは重工業の中心地として並の共和国よりははるかに大きな国家財政の貢献をしている同州の税金や資源の処分権を共和国並に高めようとしたのですから、財政への貢献度の高さを理由にロシア共和国のソ連からの脱退を宣言したエリツィンは、もののみごとに因果応報のしっぺ返しを食らったのです。)しました。