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いよいよ現代史に突入いたしました。現代の出来事というのはいまだどういう結果につながるのかわからず、当然評価も全く定まっておりません。さらに、チェスのグランドマスターの一手の意図するところが素人には全くわからないのと同様、プロの政治家の判断というものは素人には全くわからないことが往々にしてございます。長い年月が過ぎさって評価も定まり、当時は極秘だった資料も全て開示された後でならともかく、リアルタイムでの判断は素人には至難の技です。したがって、この稿以降での記述は少々自信がない部分も多々ございますが、やってみます。
グラスノスチによる情報公開は、長らく衛星国家群であった東欧地域の民主化や、同盟国で中東地域へのソ連の橋頭堡たるイラクへのアメリカの攻撃、湾岸戦争に対し打つ手のなかった状況など、かつて覇権を誇った地域から総撤収を続ける弱体化したソ連の姿を白日の下に晒け出しました。
この様子を見た、ロシア文化の源流を自認するウクライナ、リトアニア大公国時代の精強を忘れがたいバルト3ヶ国、カザフスタン地域をのぞき帝政ロシア時代末期に武運拙く戦い破れ、強制編入された中央アジア5ヶ国、ニコライ1世時代に服属されるも、チグリス・ユーフラテス文明の薫陶を受けたペルシャに近くオリエントの残照を受け、 ロシアよりはるかに古い歴史と文明を持つザカフカース3ヶ国などが、連邦おそるるに足らずと不穏な動きをみせます。
また、現在のロシア国力、情勢からして連邦の維持はもはや不可能と肌で感じとっていたであろうエリツィンらが中心となったロシア共和国の連邦からの分離独立の動きが彼の権力掌握と立法により活発化し、ソ連の崩壊が目前に迫ってきました。
アメリカ大統領ウィルソンが主張した民族自決の精神は、遅まきながら確実に世界へと広がっていったのです。第一次世界大戦の後、ヨーロッパの東に位置し、
ヨーロッパ中央での動きから遅れていたとされるハプスブルク家が支配する王朝国家オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊しました。ハプスブルク家の支配下にあった他の民族がその居住地域を自領土として独立し、経済・外交的に自立できたかどうかはともかく、自民族の代表者の統治する国家の誕生にこぎつけることができました。
オーストリアよりさらに東に位置するロシアでも、ロマノフ王朝が革命で打倒され、ロシア各地で独立政治勢力が誕生ますが、新たにレーニンを首班として成立したボリシェヴィキは、「プロレタリアートは国境を越えて団結する」とのマルクス主義のイデオロギー、プロレタリアート国際主義を持ち出すことで、多数の民族が一つの国家を形成する大義名分をかため、一旦はバラバラとなったロマノフ王朝の支配領域をさらに、武力でもって統一することに成功、その後の第二次世界大戦の勝利もあってロマノフ王朝の権益の大部分をソ連に継承させることに成功しました。
しかし、とどまることを知らない歴史の流れは、いわば「赤い王朝国家」ともいえるソ連にも押し寄せ、経済困難で目覚めた民族主義の爆発により、1991年、ソ連は崩壊し、共産党政権はその役目を終えたのです。直接時の政府を打ち倒し権力を握った臨時革命政権、ロシアのジャコバン党、ピューリタンたる、かくも永きにその命を保ったボリシェヴィキは、個人的な見解では、ロシアの工業化という一大事業を成し遂げた後、その生涯を閉じました。ゆくゆくはこの動きはさらに東の国、中国にも及ぶと僕は考えております。チベット、新疆ウイグル自治区などの分離独立が堅いのではないでしょうか。
しかし、ソ連は大国です。この時点で3万発の核弾頭を有し、400万の軍を有する超軍事国家です。これが下手に崩壊して各地に軍事勢力が台頭し、万一外国勢力による干渉戦でも発生すれば、かつてのスムータ、革命後の内戦・干渉戦の二の舞となります。また、世界に新たに15の核保有国が誕生したら、万一その核兵器が内戦で使用されたら、もはや取り返しのつかないことになります。
この危機に対してエリツィンがとった方法は、各共和国のソ連邦からの脱退を積極的に認めることでした。各共和国の独立を積極的に承認し、かつて革命後に発生した各独立民族・武装勢力の独立を認めなかったがためロシア全土に発生した内乱を回避し、その混乱に乗じた外国製力の露骨な介入を防ぐ。そのために、各共和国の疑惑を取り除くため、むしろロシア共和国が率先してソ連邦から脱退し、混乱を回避する、と。
しかし、それまで外交・軍事・経済の面において連邦の庇護の元にあった共和国は連邦脱退により、不安を感じるであろうから、ロシア・ウクライナ・ベラルーシが音頭をとって独立国家共同体を成立させ、ソ連時代とは比ぶべくもありませんが、ともかく緩やかな旧ソ連圏連合を作りだし、連邦時代の遺産を救えるものは救おうと。
この方法は大幅なソ連時代の権益後退は避けられませんが、第二次大戦よりも犠牲が大きかったといわれる革命後の内戦・干渉戦の再現よりははるかにまし、それがエリツィンの結論だったのです。むろん、エリツィンがそこまで熟慮して行動したかどうかは、すでに亡くなられた今となってはわかりません。しかし、少なくとも全盛期の彼には、時代の流れを察知し、それに便乗する、政治家としてもっとも大事な嗅覚がそなわっておりました。
もちろん彼のご乱行を知らないわけではございませんが、「春に鴬鳴き、夏に蝉鳴くが如く」でして、安定した時代にはそつのない人が権勢を揮い、動乱の時代には風雲児が大車輪の活躍をします。時代が人を呼び、人が時代を切り開くのです。運命の女神は、歴史の針を進めようとする自らの意図を実現するとき、人物も、ヴィルトゥも十分に備わった人物をすくい出し、大舞台へと据えると申します。この大混乱期のロシアでは、エリートタイプのゴルバチョフでも、能吏タイプのプーチンでもない、ただ壊し屋エリツィンのみが事態
を切り開くことができたと確信いたします。
この時期はロシアにとって試練のときでした。このロシア経済最悪期、あの誇り高いロシア人が僕に向かって「もうロシアは外国の植民地になってやっていくしかないんじゃないの」と言ったことがありますが、その人の言葉が当時のロシアの苦境を十二分に表現していたのではないかと思います(今となってはその人はちと早とちりしすぎたのではないかと言う感も漂いますが)。ともかく、エリツィンの事績を見ていきましょう。
〜 1. エリツィンの生い立ち 〜
エリツィンは1931年2月1日、スヴェルドロフスク州タリツァ地区のブトカ村で生まれました。両親共に代々百姓の出だったそうです。赤ん坊のエリツィンが村の司祭から洗礼を受けたとき、後の彼の一生を象徴するような以下の出来事が起こったということです。
ーわたしの番がまわってきたのは昼食の後で、司祭はもうかろうじて立っている状態だった。母のクラウジヤと父のニコライが私を司祭に渡し、司祭は私を桶に
つっこんだはいいが、引き上げるのを忘れて、何かのことで見物人と口論を始めた…両親はこの洗礼桶から少し離れたところにいたので、初めは状況がよくわからなかったが。だが、状況に気づくや、母は大声をあげて桶にかけより、水底の私を捕まえて引き上げた。私は人工呼吸で一命をとりとめたー
小学校時代(ロシアは11年制です)は大変な暴れん坊だったようです。成績はよかったものの、第7学年では問題のある女教師と揉めごとを起こし、学校側に特別委員会を設置させてその教師を解任させるも、自分の成績も規律の欄のみ不可をもらいます。第8学年では、あるとき武器庫から手榴弾を盗み出してトンカチで叩いたものですから当然爆発、指が壊疽を起こして手術で二本の指を切断しました。また第9学年終了後の夏休みではヤイヴァ川の水源を探しにいこうと仲間と出かけ、水源を探り当てたものの帰り道でさらに途中で出くわした洞窟探検で迷い、一ヶ月さまよった後に救出されるなど、かなりな腕白ぶりを発揮しておりました。
そしてウラル工科大学の建築科に入学、バレーボールと学業に両方励みすぎてこの時心臓を悪くしました。大学卒業後はウラル重管建設トラストへ派遣され、
建築現場の12の業種を一年で一通り覚えた後に現場主任へ就任、その後主任技師、入党、建設本部長、32才でコンビナートの責任者、州委員会の建設部長となります。
州委員会建設部長を7年勤めた後、州委員会書記に選出され、一年後1976年のモスクワ研修の際に、平の書記から第二書記を飛び越していきなりスヴェルドフロスク州委員会第一書記(州の最高権力者です)に抜擢されます(この時ブレジネフと面会しました)。また、このころ後に仇敵となる当時スターヴロポリ州第一書記だったゴルバチョフと知り合いました。また、この時期ニコライ2世とその家族が軟禁されていたイパーチェフ館を、本人が自伝で語るところによれば、モスクワからの「秘密の指令」なるもので取り壊します。
さて、10年間州第一書記を勤めた後、1984年ソ連共産党中央委員会書記(建設問題担当)に抜擢されます。エリツィンは家族をあげてモスクワに引越 し、中央政界に進出することになったのです。1985年にはゴルバチョフが書記長となり、モスクワ市当委員会第一書記だったゴルバチョフの政敵グリシンの 後任として、彼の後釜に座ります。1986年の27回党大会ではゴルバチョフはグリシンを政治局員から解任、エリツィンは政治局員補となり、ソ連政界の最高位まであと一歩のところまで上り詰めます。
しかし、エリツィンは10月の中央委員会総会でペレストロイカの遅れを非難、リガチョフを名指しで批判したのです。実際問題として、ほんとうに満足に改革を進めていこうと思えばリガチョフらの大物テクノクラートの協力が不可欠なのですが、こういう緻密なテクノクラートというものは裏返しで往々にして大量出血確実な極端な改革をきらいます。ゴルバチョフにとっては痛し痒しと言うところでしょうが、ペレストロイカの非難はソ連の最高権力者ゴルバチョフ書記長への非難でありますから、ゴルバチョフは1987年モスクワ市党第一書記からエリツィンを解任、 1988年には政治局員補からも解任します。エリツィンの自伝『告白』によるとゴルバチョフはエリツィンに対し「君はもう二度と政界には復帰させないからね」といわれたといいます。しかし、ゴルバチョフは配慮を見せ、閑職とはいえエリツィンを建設部門の職につけました。
しかし、そんなことでエリツィンの気持ちが収まろうはずもなく、エリツィンはロシア史上初の自由選挙である1990年3月のロシア共和国の人民代議員選挙に討って出、様々な妨害を受けながらも57.38%を獲得し当選、2位のルイシコフ前ソ連邦首相の得票率が17.29%ですからまさに圧勝でした。
ロシア共和国最高会議議長に就任すると、「国家主権宣言」を発表、ロシアの政治的・経済的・法的な完全主権を謳い、連邦離脱権を留保することを明言したのは先ほどのべたとおりです。1991年7月10日、正式にロシア共和国大統領に就任し、革命以来初めて、公には宗教を認めないソ連邦内で、公職者の就任式に聖職者であるロシア正教会のアレクシー2世総主教を招き、祝福の言葉を受けました。
就任演説では、「国家は国民が幸福となって初めて強いものとなるという原則を忘れたため、巨大な社会的実験の悲劇的結末がもたらされた」「行動が断固としたものでなければ、中途半端な措置しかとれなければ、改革は成功しない」「国民が選択した路線は帝国主義的野心とは無縁である。ロシアは世界各国と誠実で文化的な関係を築く。偉大なロシアは立ち上がる」と述べました。つまりは、共産主義の否定、ほとんど破壊と呼んでかまわない決定的改革、そして(ことによると帝政)ロシアの復活という持論を鮮明にしました。
〜 2. 八月クーデター収拾 〜
先ほども述べましたが、ソ連邦の権限を削りすぎる新連邦条約は保守派の反発を呼び、条約の調印を阻止しようと保守派はクーデターに走ります。連邦条約の調印予定を翌日に控えた1991年8月19日早朝、休暇中のゴルバチョフ大統領が「健康上の理由で執務不能」に陥り、ヤナーエフ副大統領が大統領代行に就任、国家非常事態委員会が全権を掌握したと国営放送が伝えたのです。ソ連軍トップの国防相のヤゾフ、КГБ議長のクリュチコフ、内務省のプーゴらによるクーデタ計画でした。
モスクワの要所要所には戦車や装甲車が配置され、首都はものものしい雰囲気に包まれましたが、ロシア共和国首脳らの行動は規制されておらず、エリツィンは
ロシア共和国最高会議ビル(通称ホワイトハウス)に立てこもりました。ビルを戦車隊が包囲しましたが、数千人の市民が現場に駆けつけ、人垣を作って戦車を阻みます。そこへ正午頃、(治安部隊の発砲はないとの情報を聞いたという噂もありますが)エリツィンがビルから現れ、戦車の上に飛び乗り、戦車兵と握手して演説を始め、「今回の政変はクーデターだ。決して認められない」とゴルバチョフ大統領の復帰を呼びかけ、国民にゼネストを呼びかけました。さらに、ソ連人民代議員大会が開催されるまでの間、ロシア共和国領内のソ連軍とКГБの全ての部隊を同共和国の管理下におくとの大統領令を出しました。
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