ロシア連邦(2

〜〜 瀕死の政権 〜〜

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Yeltsin

ボリス・ニコラェヴィチ・エリツィン
Ельцин, Борис Николаевич
1931-2007

1961
年入党、1990年離党、1991年ロシア共和国大統領

ソ連を破壊しСНГ創立


Российская
История

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Российская
История


 



    〜 1.第二期エリツィン政権 〜

 前半は改革派として光輝いていたエリツィンですが、後半戦になると自身の健康問題もあって急速に失速、保守化します。 これはロシアに置ける大概の改革派政治家の宿命でして、一個人に全ての権力が集中し、当然のことながら権限も全て集中することからあらゆるこまごました決済も自分が下さねばならないパターンが圧倒的なロシアにおいては、治世後半にかけて息切れから失速し、保守化し流れに身を任すようになるのは、良し悪しは別にして、ロマノフ朝からロシア史によく見られるケースです。最末期こそ乱れがありましたが、権力を握ってからほとんど死の寸前まで第一線で活動しつづけることのできたスターリンのような怪物政治家は、あくまで例外中の例外です。

 ロシア史に残る大混乱期の、非常な緊張を要し精力を消耗する国勢の舵取り、人気挽回をかけた地方遊説がエリツィンの健康を蝕み、若いころ悪くした持病の心臓病がぶり返しました。再選を果たしたときもテレビ演説のみで勝利集会への出席はなしでした。199689日の大統領就任式典も、本来はクレムリン寺院広場でロシア皇帝の戴冠式並に盛大に行う予定でしたが、エリツィンの健康を考慮し、式典実行委員長のチュバイス大統領府長官が20分程度の簡素なものに止め、宣誓は行ったものの大統領就任演説は省略するなど、前途多難を思わせました。

  人事ですが、当然論功表彰人事で、ロシア政界に安定をもたらしたチェルノムイルジン首相は続投、オリガルヒの一人ウラジーミル・ポター ニンが選挙資金協力の功で第一副首相となり、政財界の癒着というより政界と財界の壁がなくなる状態となり、また老年層を中心に侮りがたい勢力を持つ共産党を取り込むため、ザベリョーハ副首相(農業 担当)が留任、ジュガーノフ共産党党首と近いトゥレーエフ州議会議長が対CIS諸国協力相に任命されました。

  大統領選も終わったということでさっそく健康問題をなんとかしなければならないという話になり、エリツィンは826日からモスクワ郊外の大統領別荘ルーシで夏期休暇に入ります。9 14日には精密検査のためにモスクワ中央病院へ入院します。まずは手術に耐えられるだけの体力回復が先という結果が出、しばらく日程をずらし、万が一のときのためにチェルノムイルジン首相に大統領権限を一時移譲し、核のボタンも渡した上で115日、心臓バイパス手術を受けます。手術は成功 し、1122日には無事に退院します。リハリビを続けて公務に復帰できたのは1223日のことでした。しかし、1997年1月8日には肺炎で入院、28日まで病院で過ごします。

  さて、大統領選挙に先だって安全保障会議書記となったレベジは1996810日、チェチェンにおける大統領全権代表に任命されました。「私はイスラム世界に対する軍事侵攻には絶対反対だ」とインターファクス通信に語り、最初からチェチェン攻撃に反対のレベジはチェル ノムイルジン首相が議長のチェチェン問題国家委員会を何の成果もあげていないと批判、問題解決の全責任を安全保障会議に委ね、その全ての決定の執行は自分を通すように主要しました。チェルノムイルジンは珍しく激怒したとのことですが、エリツィンはレベジの主張を受入れ、チェチェン問題国家委員会は解散、 チェチェン問題に関する政府各省の活動を調整する特別権限をあたえるという大統領令に署名しました。







アレクサンドル・イヴァノーヴィチ・レベジ
Лебедь
, Александр Иванович
1950−2002

フルンゼ軍事大学卒、空挺団。ロシア軍中将
チェチェン紛争停戦に尽力





 レベジは大統領全権代表となるとすぐに812日、チェチェンにはいり、独立派武装勢力の穏健派マスハドフ参謀総長と会談し、14日からロシア軍との停 戦を実現することで合意しました。レベジはまず停戦が実現してからの紛争解決に進もうとしましたが、停戦合意は守られませんでした。すると819日、レベジに対してチェチェンの首都グローズヌィの秩序を回復した後にロシア軍を撤退させるよう、あらゆる手段をとるべきだという厳しい内容の大統領令を発表します。これに呼応してロシア軍司令官代行のプリコフスキー中将が22日から武装勢力支配地域への総攻撃を予告、地元住民に48時間以内の退去を勧告します。

 安全保障会議の報道官は、この大統領令の起草にエリツィンが関与したか疑わしいとの声明を発表、レベジはグローズヌィに飛んでチェチェン側の最高指導者の一人マスハドフ参謀総長と会談をかさねます。





アスラン・アリエーヴィチ・マスハドフ

Масхадов, Аслан Алиевич
1951-2005

カリーニン軍事大学砲科卒業旧ソ連大佐、チェチェン第3代大統領




  マスハドフは1951年、対独協力を疑われたチェチェン人がカザフスタンに追放されていた時期にカザフスタンで生まれました。6才でチェチェンに帰還、 1969年にソ連軍に入ります。1972年にトビリシ高等砲兵学校を卒業、1981年にカリーニン名称軍事大学を卒業しました。ハンガリーや極東、バルト三国などに駐在 し、特にゴルバチョフがバルト三国の独立を阻止するため リトアニアの首都ビリュニスにソ連軍を派遣した際には、部隊の指揮官を勤めました。 

  軍隊に入ったのは家庭の経済事情でしょうか。しかし、ソ連軍に入るにあたっては、いろいろ反対意見もあったでしょう。わが民族をここまで迫害した国家の軍に入り、忠誠を誓うとは何事かと。まだ物心つかない6才でチェチェンに帰ったマスハードフは追放当時の事情を覚えてはいなかったでしょうが、家族や親類からいろいろ話を聞いていたに違いありません。しかし、彼も彼なりに気持ちの整理をつけ、決心してソ連軍に入ったのでしょう。

  そうして軍隊生活を送ってきた40才の彼に下った任務が、チェチェンと同じく数的には少数民族で構成されるバルト三国の独立運動の鎮圧でした。1859年の併合以来、 独立を求め帝政ロシアに対し度々反乱を起こしてきたチェチェンの出身であり、バルト三国の独立の気持ちは十二分に理解できたであろうマス ハドフ、にもかかわらずソ連軍の一員として、その独立運動を鎮圧する立場に立たたねばならなかった彼の胸中はいかなるものだったでしょうか。

  改革派と言われ、自由主義、ひいては連邦内部の民族自決を認めるかもしれないと期待されたゴルバチョフも、結局のところ大国主義を振りかざし、少数民族で構成される共和国の独 立の機運を軍事力で押し潰そうとする旧来のソ連指導者と何も変わらないのを目の当たりにしたマスハドフ。ゴルバチョフにしろエリツィンにしろ、どれほどリベラルな発言を行おうと、結局のところ大ロシアの枠組から抜け出ることを断じて許さぬソ連の最高指導者たち。軍隊を、祖国を脅かす敵でなく、祖国を構成する民族の一般市民に対し差し向ける命令を下し、実際に自分に手を下させた祖国。これが自分の半生を捧げた組織の姿なのか…。

 連邦の一員に留まる限り、今は鎮圧に回る側でも明日はわが身、自分たちにもいつなんどき迫害の嵐が吹き荒れるかわからないのは、1944年のチェチェン人のカザフスタン・シベリアへの追放で明らかであり、しかもこの迫害が起こったのはマスハドフの父母の時代です。マスハドフには彼らが語ったソ連の迫害の意味が初めてわかったのではないでしょうか。

 以上のような経験が、彼にどのような影響をあたえたのか、2005年のロシア保安庁(ФСБ)の作戦でマスハドフが殺害されてしまった今となってはわかりません。

  しかし、ここでロシア側の意見も述べておかないと不公平というものでしょう。個人的にザカフカース系の人(タガンローク出身)には一度しかあったことがないのですが、すぐにぶちきれやすい、非常に付き合いにくいタイプの人でした。スターリンってこういう人だったのかなあという印象を受けました。

  また、独立したい意思は結構だが、こんな小国が経済的・軍事的にそもそも独立してやっていけるのか。チェチェンの場合は国内を石油のパイプラインが通って いますから、パイプラインのメンテナンス・通過手数料などを独立後の資金に当て込もうとしたのでしょうが、この石油パイプラインの管理をチェチェン一国で本当に技術的にやりとげられるのか。

 歴史をひもとけば、大国の思惑もあり、第1次世界大戦後のオーストリア・ハンガリー帝国の崩壊でめでたく独立を達成した中東欧の小国が、一体どういう目にあったか。小国に分裂してしまったため一致した抵抗ができず結局ナ チスドイツやソ連などの大国に翻弄し尽くされた歴史を考えると、いくら独立の誇りが旺盛でも、悲しいかな小国ならば、身の程を弁え、寄らば大樹の陰でもやむを得ないと。

  どうせ寄らば大樹の陰ならば、ペルシャとの戦争による強制編入だろうが腐れ縁だろうがなんだろうが、古い付き合いでお互い知己のロシア圏内に留まるのが一番ではないだろうか。他の大国も一時的には力を貸してくれるであろうが、いくら石油と絡むとはいえ、これほど遠くの国家の運命に本当に最後まで関心を払い続けてくれるのか。引きかえロシアはお隣さん、良きにつけ悪しきにつけ、地理的に一蓮托生の仲ですよ。とはいえ軍事技術開発や兵員維持など、人的資源・経済力・労苦・政治などの必要なことは大国が肩代わりするから我々に協力してくれ、というのがロシア側の意見でしょう。

 ともかくマスハドフはソ連軍で大佐まで昇進しますが、1991年に退役したのちすぐにチェチェン共和国国防軍に入隊します。1993年にはチェチェン軍参謀総長に任命され、1994年の第一次チェチェン紛争で旧ソ連空軍少将のドゥダエフ・初代チェチェン共和国大統領とともに戦闘を指揮していました。

 19964月にドゥダエフ大統領がロシア軍のロケット攻撃で死亡すると、チェチェン・イングーシ国立大学出でイデオロギー問題を担当していた副大統領のゼリムハン・ヤンダルビエフが第2代チェチェン共和国大統領となりましたから、マスハドフが軍事関係の最高実力者となっていたと思われます。

 ともかくレベジは821日から22日にかけて同じ旧ソ連軍同士、マスハドフ参謀総長と会談を重ね、ロシア軍司令部も抑えて総攻撃を回避し双方が軍を引き、グローズヌィの秩序をロシア軍とチェチェン武装勢力双方の合同警部司令部が維持する協定を成立させることに成功します。協定は23日に発行し、グローズヌィは平穏を取り戻したと外電は伝えました。つづいてレベジは独立派とチェチェンの政治的地位について話合い、831日にはダゲスタンのハサビェルトでマスハドフとさらに会談を重ね、チェチェン独立問題を向う5年間棚上げにするとの合意に達し、共同政治声明を発表しました。これでチェチェンに一応平静が戻り、ロシア軍の戦闘も中断ということになりまし た。

 しかしエリツィンはレベジの尽力に報いることなく、レベジはこれを機会に政界に力を伸ばそうと画策したため1017日に安全保障会議議長を解任します。200248日、視察中のヘリコプター墜落事故でレベジは亡くなりました。

  次に起こなわれたのはエリツィン当選に大きな役割を果たしたオリガルヒへの利益誘導です。1997年7月28日、軍人の未払い給与55000億ルーブルを清算するとして、チュバイス主導でロシア最大の通信分野での持株会社、スビャジインベストの政府所収株の25%の公開入札が行われ、ポターニン前副首相のオクシム銀行グループと、ポターニンの勢力拡大を警戒したベレゾフスキーとグシンスキーが連合を組み、激しい競り合いの結果、ポターニンが落札しました。

  しかし、入札後オクシム・グループが落札額の半分以上の10億ドルをアメリカの投資家ジョージ・ソロスから仰いでいたことが判明、通信分野を外国人に握られることを共産党も懸念し、ベレゾフスキーは傘下のロシア公共テレビ・独立新聞、グシンスキーは独立テレビ・セヴォードニャ紙などを使って大々的に異議を唱えます。

  チュバイスらは当然これを無視、ついで政府保有株売却第二弾として「ノリリスク・ニッケリ」の株式の38%の公開入札を発表しました。チェルノムイルジン首相は、入札の実施条件が現行法に適合していないと入札延期を指示しますがチュバイスは入札を決行、ポターニン率いるオネクシム・グループの「スヴィッ ト」社が23618万エキューを提示して落札します。

  ここで民営化の実務担当者のコフ副首相・国家資産管理委員会議長が辞任し、エリツィンが815日テレビインタビューで今回の出来事は一部の銀行が他の銀行よりもコフ全議長に近かったことから発生したスキャンダルであり、そのようなことがあってはならない。全てが誠実でオープンでなければならず法律を遵守し、いかなる違反もないようにしなければならないとコメントしました。


       〜 2. ロシア経済最悪期 〜

  こうして選挙では一致していた新興財閥間での争いが続く中、年が変わって1998323日、国営ロシア・テレビを通じてチェルノムイルジン首相を始め 全閣僚の更迭を発表、代わってキリエンコ燃料エネルギー相を首相代行に任命しました。当時キリエンコは35才、帝政ロシア・ソ連時代を通じて最年少の宰相の誕生でした。




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セルゲイ・ウラジレノヴィチ・キリエンコ
Кириенко
, Сергей Владиленович
1962


短命内閣




  キリエンコは1962726日、グルジア共和国アブハジア自治共和国(つまりはラヴレンチー・ベリヤの同郷人です)の首都スクミに生まれました。ゴーリ キー(現ニージニー・ノヴゴロド)の水運学校を卒業、モスクワ国民経済大学を卒業後、ニージニー・ノヴゴロドで商業銀行「グランチャ」を設立、同銀行頭 取、石油会社社長を勤めた後に改革派テクノクラートに転じました。1997年にネムツォフ第一副首相兼燃料エネルギー相に請われて燃料エネルギー次官に任 命、ネムツォフのエネルギー相解任に伴いエネルギー相となっていました。

 327日エリツィンはキリエンコを正式首相に指命し下院に承認を求めましたが、議会は経験不足を理由に(まあそりゃそうでしょう)410日承認を拒否します。大統領の再度の承認も拒否、憲法は大統領の三度の首相承認を拒否すると下院を解散すると定めていましたので、この憲法の規定をちらつかせ、ようやく賛成251、反対25、これで議会の過半数226を越えて(数字のつじつまのあわない部分は棄権)なんとかキリエンコ首相誕生とあいなりました。

 キ リエンコは58日までに組閣を終えます。1997年までにはロシア経済はインフレが鎮静化、国内総生産の低下もそこをうち、最悪期を脱しようとしていま した。これを機に、ロシア政府は旧1000ルーブル=新1ルーブルのデノミネーションを断行します。

 が、資本主義経済圏に合流したロシアにアジア経済危機が容赦なく襲いかかります。1997年タイのバーツ下落(おそらく原因はヘッジファンド)に始まったア ジア危機はマレーシア、インドネシア、フィリピン、さらには韓国にまでひろがりました。タイ、韓国はロシアと同じくIMFの管轄下に入り、マレーシアはマハティール首相が強権を発動し為替管理政策を導入して国内経済を防衛、インドネシアではスハルト長期政権が崩壊しました。

  こ の余波はロシアにも及び、1998年1月あたりから株価や短期国債相場は下落、石油の国際価格の下落もロシア経済に響いていました。そんな中、年金や公務員給与が遅配におちいり、49日には内務省推計では150万人近くが傘下したデモやストがロシア各地で発生します。5月1日のメーデーではロシア各地でさらに250万人が参加、5月6日にはボログダ炭鉱でストライキが発生しました。国民の指示を背景に大統領になったエリツィンが、国民からストライキという明らかな不支持を突きつけられたのです。こうして社会不安がひろがる中、株価は5月には前年比で40%下落しました。
 
  さらには、526日、ロシア第五位の石油会社「ロスネフチ」の政府保有株75%売却のために公開入札が応札が一件もなく不成立に終わったことが公表されました。翌27日、株価は急落(ブラックウェンズデーと呼ばれます)、ルーブルの対ドル相場も下げ止まらず1ドル=6ルーブル18.8コペイカとされた外貨変動枠を突破して6ルーブル20.1コペイカとなり、 ルーブル切り下げの観測もただよい始めました。

  ロ シア中央銀行はなけなしの外貨をはたいて15億ドルのルーブル買いを行い、公定歩合を50%から150%に引き上げてインフレ抑制政策をとり、ルーブル防衛に走ります。内務省管轄の税務警察による税金の取り立ても強化し、ガスプロム、統一電力体系、鉄道省など大口滞納先に早急な納税を要求、中小税金滞納企業は倒産させる方針を打ち出します。

 さ らにエリツィンは有力財閥の首脳10人をクレムリンに招いてロシア市場から資金を引き上げないこと、国家資産争奪戦を停止してロシア経済の再建に協力する よう要請しました。さらにアメリカ、ドイツ、日本など主要国はIMFや世界銀行が新たに対ロシア金融支援に乗り出すことを指示すると相次いで発表し、6 10日パリで開かれた先進7ヶ国の蔵相代理会議でもアメリカ主導で必要な場合には国債機関を通じた追加支援を行うことが確認されました。こうした好条件のなか、ロシア中央銀行は公定歩合を60%に引き下げ、株価も安定します。

 617日、97年秋に未完の著書の原稿料名義で賄賂を受け取ったという疑惑が報道されたことを受け、経済・金融担当第一副首相を外されていたチュバイスは キリエンコ内閣にも入閣しておらず、統一電力体系の会長をやっておりましたが、エリツィンはその彼をロシアが国際金融と交渉を担当する副首相級の大統領特 別代表に任命します。結局金融危機に際して西側に顔の聞く彼の手腕に頼らざるを得なくなったのです。彼は長期的なロシア財政の建てなおしには100億ドル から150億ドルの資金援助が必要だと主張しました。

  もちろんロシア財政の対外依存の激しさを懸念する人たちもおり、下院は声名を発表、「対外債務はいまや1350億ドルにのぼり、良識ある限界をはるかに越 えて国家の経済、政治主権に直接脅威をあたえている」と主張しました。しかし他に適当な良い方法も見付からず、チュバイスは713日、IMFから 2000年までの2年間、226億ドルの緊急支援の約束を取り付けることに成功しました。

  しかし、金融不安は収まらず、813日には優良株が1525%下落し、取引が一時中止されます。ルーブルの対ドル相場は1ドル=6.299ルーブル の、対ドル目標相場圏下限にまで下落しました。目標相場圏とはルーブル安定のために金融当局がもので中央銀行が毎日1ドル=6.1ルーブルを基準に上限・ 下限を設定して変動幅をもうけ、必要応じて市場介入する方法です。最高で上下15%の変動幅を設定していましたが、今回これを越えそうな事態が発生したの です。

 エリツィンは13日に訪問先のノヴゴロドで、「切り下げはない。私ははっきり確信をもって言明する」「空想で言っているのではな い、全ては計算の上である」とテレビ放送で言いきりしました。ところが17日、ロシア政府と中央銀行は突如目標相場圏を6.0-9.5ルーブルまでに拡大 すると発表、事実上の切り下げが発表されたのです。ルーブルの大幅目減りを事実上認めたこの発表で、ルーブルで貯めた貯金がこれ以上大幅目減りしては一大 事と市民は一斉にドル交換に走り、町には市民の怒りの声が満ちあふれたといいます。

 さらに政府は、市場の混乱を避けるためと称して民間 の対外債務の一部に着いて90日間の支払い延期を認め、99年末までに償還期限のくる国債の期限を3-5年延期すると発表しました。この影響で半分は身から出た錆ですが、ヘッジファンドのLTCMは解体、輸入品が半分以上を占める食料品その他の消費財の値上がりを呼びました。

 下院は821日、臨時本会議でエリツィン大統領に任期満了前の自発自認を勧告する決議を採択しました。農業党の提案になるこの決議には定員450人中の過半数の245議員が賛成、反対はわずかに32議員のみでした。さらに財政・金融に関する決議では、危機克服に向けた政府と中央銀行の対応は「満足のいくものでな い」との非難決議も246議員が賛成します。法的な拘束力はないものの、真向からの下院の非難を受けたエリツィンは823日、突然キリエンコ内閣の全閣僚を解任、経済破綻の全責任を内閣に押しつけ、こうしてロシア史上最年少のキリエンコ内閣は150日間という短命に終わりました。

 後任ですが、エリツィンはつい5ヶ月前に首相から解任したチェルノムイルジンを首相代行に任命します。ジリノフスキー自由民主党党首は「大統領がチェルノムイルジンを復帰を可能と考えたのならなぜ春に彼を解任しなかったのか理解に苦しむ。彼の首相就任は下院で指示されまい」と語り、下院会派「人民権力」の リーダー、ルイシコフ元ソ連首相は「支離滅裂」と評しました。しごくもっともなご意見だと思います。
 
  エリツィンはテレビ演説で、困難な国内政治状況の中では安定の確保が最優先であり、重量級の人物が必要だと主張しましたが、下院はエリツィンのチェルノムイルジンの首相任免を二度にわたって拒否、やむなくエリツィンは下院の全会派から首相候補として推薦されていたプリマコフ外相代行を首相に指名して下院にはかりました。結局エリツィンは野党と妥協して首相を任命したのです。
 
 






エヴゲーニー・マクシーマヴィチ・プリマコフ
Примаков, Евгений Максимович
1929−
旧КГБ出身、ロシア政界に小康状態をもたらす




 プリマコフですが、1929年ウクライナの首都キエフで生まれました。少年時代をグルジアの首都トビリシで過ごし、1953年モスクワ東洋学大学を卒業後、1956年モスクワ大学大学院を終了し、経済学博士を取ります。1956年から国家ラジオテレビ委員会のラジオ放送局の放送記者となり、1962年にコムソモールスカヤ・プラウダ勤務となります。このプラウダの中東特派員期にサダム・フセインと知合い、やがて中東問題の専門家として知られるようになりました。

  1970年にソ連科学アカデミー世界経済・国際関係研究所(IMEMO)に副所長となり、1977年ソ連科学アカデミー東洋学研究所所長を経て、1985 年から1989年までIMEMO所長を勤めました。その後ソ連最高会議連邦会議議長などを経て政界に入り、1991年にはКГБ第一副議長、解体後はКГБ第一総局の後身ロシア対外防諜局(СВР)初代長官を経て、1996年から外相を勤めていました。湾岸戦争時はゴルバチョフから特使としてフセイン大統領の元へ派遣されるなど、中東地域の紛争調停工作に携わるなどしてきた、旧ソ連系の大物です。

  組閣ですが、第一副首相に共産党から元ゴスプラン議長のマスリュコフ、中央銀行総裁には共産党推薦のゲラシチェンコを据え、極右の自由民主党からカラシニ コフ下院社会問題委員会委員長が労働・社会発展相として入閣するなど、大統領与党「われらの家ロシア」、共産党、農業党、自由民主党の4党の連立内閣となりました。

 このプリマコフ内閣は発足そうそうデモの嵐に見舞われます。199810月、労働組合と左派勢力、一般市民らが賃金の支払 いと大統領の早期退陣をもとめてモスクワ・シベリア・極東などで統一行動を開始し、内務省の調べでは70万人が参加したとのことです。エリツィン大統領は 少なくとも2000年までは大統領を続けると言明しましたが、なんとも雲行きがあやしくなってきました。

  そしてこの肝心な時期にエリツィンの健康問題が悪化します。1011日、ウズベキスタンを訪れたエリツィン大統領はタシケントでの歓迎式典中によろめき、日程を短縮して翌日にモスクワに戻って郊外での静養、さらにソチに移って118日まで休暇を取りました。ところが1122日、肺炎にかかって入 院、年が開けた1999117日、急性出血性胃潰瘍でまたも入院、同月下旬、執務に復帰したものの、227日には胃潰瘍で入院、318日にやっと 退院というありさまでした。


  〜 3. エリツィン・ファミリーに迫る検察の捜査 〜

 この様な状態では当然政界はポストエリツィンに向けて動き出します。そんなさなか、1999年、プリマコフは旧КГБ人脈の隠然たる影響と内閣に閣僚を送り込んだ各政党の支持を得て1999年度国家予算も下院の圧倒的支持を得て可決、1999年度初頭から発動した財界汚職追放キャンペーンも朝野で好意的に受け止められます。

 199921日、大統領一家と極めて親しい関係にあった財界のボス、ベレゾフスキーСНГ執行書記の関連会社、石油会社のシブネフチとその警備保証会社を探索し、大統領一家の会話の盗聴の容疑で、盗聴機材などを押収しました。つづいて24日、外貨を違法に持ち出した容疑でこれまたベレゾフスキー系列の航空会社アエロフロートの関連会社を探索します。

 この直後、スクラトフ検事総長が病気を理由に突然大統領に辞任を申し出ます。検事総長の任免には上院の承認を必要とするので、エリツィンはこの件を上院 に図り、ベレゾフスキーを解任します。一方、スクラトフは317日、上院の会議で今回の辞表提出は政治的圧力によるものだと発言、辞表提出直前まで振興 財閥が関わる複数の犯罪の内定を行っていたが、ベレゾフスキーが大統領を通じて捜査中止を働きかけていたことを示唆しました。その後の採決で辞任承認は賛 成6、反対112となり、圧倒的多数で拒否されました。

  その夜、ロシア公共テレビでスクラトフと思しき人物が部屋のベッドで二人の女性といちゃつく場面が流されました。当時連邦保安局長官のプーチンも「ビデオ は本物と認められる」と公言しました。また、エリツィンは連邦保安局の全面改組に関する大統領令に署名、連邦保安局の人員150人を一時解雇し、再雇用の 選択権をプーチンにあたえ、プーチンはプリマコフ派の幹部を更迭します。じつは検察当局と、これから述べる下院の大統領弾劾の動きに、スクラトフとプリマ コフの間に黙契があるとエリツィンが疑ったのでした。

 スクラトフもさらなる反撃に転じ、318日、「法律違反はなにもしていない。信任されるなら職務を続行したい」
と 発言、その上でスイスの建設企業「マベテックス」社と大統領府高官の間での収賄疑惑があることを暴露したのです。マベテックス社は最高会議ビルやクレムリ ンの内装、上下院の議場改修などを一手に引き受けた会社ですが、その際に受けっ取った費用10億ドルのうち5%をボロディン総務局長ら大統領高官に送った という容疑が浮上していました。

 その他大統領が国家予算でヨットを購入した際や大統領の娘のタチヤーナがモスクワ郊外に豪華なダーチャ を立てた際に斡旋、仲介の労を取った疑惑が持たれていました。ロシア最高検察庁の要請を受けたスイス検察当局は122日マベテックス社を捜索し、ロシア 高官に謝礼を払った同社の帳簿や銀行口座の控えなどを押収しており、323日にはこれらの証拠書類を携えたスイスのカルラ・デリ・ポンテ連邦検事がモス クワ入りし、ロシア側と提携してスイス・ロシア間の国際汚職容疑の立件に着手しました。ベレゾフスキーは刑事訴追を受け、逮捕状まで出されますが、商用と称してパリに逃れます。

 エリツィンは42日、大統領例を発し、スクラトフ検事総長を職務停止処分にし、総長代行にチャイカ次長検事を 任命します。チャイカ次長検事はベレゾフスキーの逮捕状を取り消しました。当然検察の捜査は尻すぼみです。検察当局の追求と歩調を合わせたかのように下院 では共産党の主導による大統領弾劾の動議を成立させるべく多数派工作を始め、プリマコフは4月半ば、「今は弾劾すべき時ではない」と発言、エリツィンに 「いつなら弾劾していいのか」とやりかえされ、大統領の怒りを買います。

 1999511日、下院は同月13日から大統領弾劾問題の 審理を開始すると決め、ジュガノフ共産党議長も弾劾発議成立に自信を見せました。512日、エリツィンは突如プリマコフ首相を解任、ステパシン第一副首 相兼内相を首相代行に任命し、下院に承認を求めました。515日、弾劾動議に対する賛否の評決が共産党主導の弾劾特別委員会の上げた5項目に関して行わ れました。1.ソ連邦の解体について、2.議会の武力制圧(モスクワ動乱)について、3.チェチェン侵攻について、4.ソ連邦の崩壊の責任について、5. 国民の生活条件の悪化による事実上の大虐殺について、いずれも定数の2/3に達しませんでしたが、しかし賛成は圧倒的多数でした。辛くも危機を乗り越えた エリツィンはステパシンの首相就任を下院の賛成多数で承認させることに成功します。







セルゲイ・ヴァディモヴィチ・ステパーシン

Степашин, Сергей Вадимович
 
1952−

旧КГБ出身、2ヶ月の短命首相





  なんとかステパーシンが首相になったものの、野党勢力は攻勢を弱めることはありませんでした。エリツィンに批判的であり、1996年のモスクワ市長選で 90%強の得票率を得たモスクワ市長ルシコフは1998年末に政党「祖国」を旗揚げしておりました。さらに199984日、中央集権を進めるエリツィ ンに批判的な、ロシア連邦を構成する共和国、地方・州などの首長と議会議長らが集まる政治グループ「全ロシア」が「祖国」と合流し、「祖国・全ロシア」が 誕生したのです。

 このような勢力が誕生してはエリツィンにとっても、ロシア国家の運営に取ってもまたも危険極まりない事態です。エリツィンは統合前の「祖国」と「全ロシア」の代表者とステパーシンを送りますが支持を得られず、今度はエリツィン自らが199984日、「全ロシア」のリーダーの一人、シャイミエフ・タタールスタン大統領をモスクワの別荘に呼んでステパシンを支持するよう要請しましたが、これも蹴られてしまいます。同日の午後、「祖国」と「全ロシア」の連合が正式に発表されました。

 89日、ステパーシンは解任されます。エリツィンは解任の明確な理由を説明していませんでしたが、ステパシンの力量を見限ったからだと思われます。また、次期下院選挙の投票日を1219日とする大統領令に署名しました。

  ステパシンを切ったエリツィンは、直ちに安全保障会議書記兼連邦保安局長官ウラジーミル・プーチンを第一副首相、首相代行に任命し、下院に首相としての承認を求めました。さらに国民向けテレビ演説で、十ヶ月後に迫った大統領選に向け、社会を団結させ、広範な政治勢力の支持を集めて改革を継続できる人物としてプーチンを紹介し、事実上の後継者指名を行いました。







Путин, Владимир Владимирович
ウラジーミル・ウラジーミラヴィチ・プーチン
1952


旧КГБ出身、第二代ロシア連邦大統領





 下院の票決では反対は84、棄権は17、賛成233の過半数でプーチンの首相任命が承認されました。厳しい情勢の中、プーチンは選挙対策を立てねばなりませんでした。

 まず、「祖国・全ロシア」ですが、1999年夏の政治家の人気投票で第一位、20%強の支持を得たプリマコフ元首相を代表に迎え、下院比例代表区候補リストの第一と します。ルシコフとプリマコフの握手で「祖国・全ロシア」は強力な名望を得たことになります。また、ロシア連邦の89の構成単位すべてに支部を持ち、党員 50万を号すロシア共産党ですが、世論調査で常に20%の評価を得ています。万一次の選挙でこの二つの党が議席の多数を占め、2000年の大統領選でどちらかから大統領誕生といった事態が発生すればエリツィン大統領の刑事訴追も起こりかねません。

 こうした中、プーチンは新党「統一」(愛称、メドヴェージ)を結成します。ベレゾフスキーが資金提供し、国民に人気の高いショイグ非常事態相(チューバ人)を比例区候補者リストの第一位に登録し、さらに金メダリストのレスリング選手のカレリンなどを担ぎ出します。

 さて、19991219日に行われた選挙ですが、第一党は変わらずロシア共産党(113議席)でしたが、あれだけ急ごしらえだったにもかかわらず 「統一」は72議席を獲得して第2党、「祖国・ロシア」は68議席で第3党です。さらに、100人強の無所属議員のうちのかなりの数が「統一」に合流し、第7党のチェルノムイルジンの「われらの家ロシア」はもともと大統領与党、第5党のジリノフスキーの自由民主党は隠れ与党とよばれるほど与党に接近、「祖国・ロシア」は「統一」と共同戦線を張れないこともない、つまり第一党のロシア共産党を抑えてスムーズな法案・予算案通過が可能となる情勢が発生しました。


      〜 4. 後継者確定と辞任 〜

 選挙結果を見て、これは安心できると思ったのでしょう、19991231日、エリツィンはテレビで突如、大統領を辞任するとの声明を発表しました。







エリツィンの辞任演説(20001231日)。



 ー「私は決意した。長い間、苦しい思いをめぐらせてきた末の決意である。去りゆく世紀の最後の日である今日、私は辞任する

  …わたしは所定の任期満了を前に辞任する。私はそうする必要があると思い至った。ロシアは新しい千年紀を新しい政治家、新しい人物、新しい賢明で強く、精力的な人々とともに迎えなければならない。私達のように長年にわたって権力の座にある者たちは去るべきだ。

 … 私はもう人生の主な仕事は成し遂げたと納得した。ロシアはもう、決して過去に逆戻りすることはあるまい。ロシアはこれから、常に前に向かってのみ進んでい くであろう。私はこの当然の歩みを妨げるべきではない。大統領たるにふさわしい強力な人物がわが国におり、さらに今やロシア国民が事実上、将来の希望をそ の人物と結びつけて考えている。こんな時、あと半年も権力の座にしがみついていてよいのであろうか?私がその人の邪魔をすべきだろうか。なぜあと半年待つ ことがあろう。そんなことは私にはできない。性に合わないのだ!

 …私は皆さんとの約束の多くが実現しなかったことに対して、皆さんの許しを乞いたい。…暗くよどんだ全体主義的な過去から明るく豊かで開明的な未来へ一足飛びに一気に乗り移ることが出来ると信じていた人たちのある種の期待に添えなかったことをお詫びしたい…

 一足飛びには行かなかった。何かにつけて私は余りにナイーブだった。問題があまりにも複雑だった。我々は試行錯誤を重ねながら、何とか進もうとしたが、この難しい時期に多くの皆さんにショックを与えてしまった。だが、知っていただきたい。

 …皆さんのそれぞれの心痛は、私の心痛に跳ね返ったことを。眠られぬ夜ごとに、私は人々がほんの少しでも、たとえわずかでもより安楽に豊かに暮らせるには何をするべきか、思い悩んだ。私にはそのこと以上に大切な宿題はなかった。

 私は辞任する。出来ることはすべて私は行った。辞任は健康状態のためではなく、あらゆる問題を総括しての結論である。私と交代するべき新しい世代がやってきている。より多くのことを、そしてより良く行うことができる世代である。

 私は憲法に従って、ロシア大統領の職責を首相のウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン氏に委ねる大統領令に署名した。プーチン氏は憲法に従って三ヶ月間、国家元首の職責を果たすことになる。三ヶ月後、同じく憲法に従って大統領選挙が行われる。

 私は、ロシア国民の驚嘆すべき英知をずっと信じてきた。皆さんが20003月末にどんな選択をするかを心配していない。

 お別れに当たって、皆さん一人一人に言いたい。どうぞお幸せに。皆さんが幸せで安穏であるように。

 皆さん、新年おめでとう! 新世紀おめでとう!」ー

 至誠の言葉と言えましょう。いかにミスも多かったとはいえ、ロシア史に残る大混乱期に自分を支え、国を支え、人をまとめ、一つの方向に進めていくことの大変さ、当局者でない限り分からないつらさというものはございます。

 プーチンは大統領代行に任命されるや、1231日付けで直ちにエリツィン前大統領の処遇を決定します。前大統領には、逮捕や訴追を免れる刑事免責の特権が与えられ、大統領就任時の給料の75%が支給され、居宅と別荘の使用が引き続き認められ、24時間態勢のボディーガードがつけられることとなりました。

 引退後は夫人とともにテニスの試合を見にいくなど、自由な時間を過ごせたエリツィンですが、長年の労苦とロシア史上未曾有の大混乱を乗り越えた試練が間違いなく祟ったのでしょう、2007423日、多臓器不全で76歳で死去しました。




  


エリツィンの国葬



   〜 5.エリツィン時代の総括 〜

 大統領の椅子と引換に、崩壊した経済とチェチェン問題とをプーチンに押し付けて引退したエリツィンですが、僕は彼の業績を高く評価します。確かに彼の政治は国民に耐乏と混乱を強いたものです(僕もちょうどこのころロシアを旅行しましたが、通りすがりの一介の旅行者にもそのすさまじさは感じました。)。しかし、これも唯一期待できるIMFからの融資を得るための、IMFの何が何でもインフレ抑制と均衡財政の方針を飲まざるを得なかったためですし、あのロシアの歴史に残る大混乱期を大過なくやりすごせたような政治家なんぞ、実際問題として当時のロシアに、そもそもこの世にいたのでしょうか?中国のようにスムーズな市場経済の転換を図ればいいじゃないかという向きもございましょうが、それに対しては、「問題の先送りは、将来に於いてさらなる事態の悪化を招く」というのが僕の回答でございます。
 
  共産党の一党独裁に終止符をうったこと。ソ連を解体して無駄に広げたソ連の覇権の傘を身の程にあった規模に縮小することに成功したこと。これが最大の功績ですが、ソ連は崩壊させてもСНГというゆるい地域連合を作り出すことで、ロマノフ朝崩壊後に起こった内乱を回避できたこと、たとやしチェチェン紛争という形で回避しきれなかった面もあったが、ともかく最小限にとどめたこと。かつて(そしておそらく今後も…)誰もやったことのない社会主義経済から市場主義経済への転換を、やっとこさっとこではあってもなんとか成功させたこと。当時はほぼ無名に等しかったプーチンという人物の才能を見抜いて抜擢し、後継者に据えたこと。彼の行ったことは、明かに並一通りではない、超一流の政治家のみのなせるわざであります。プーチン政権の飛躍の礎は、エリツィンが持ち前のその 後剛腕で、ソ連時代のウミを大手術で一気にえぐり出せたからこそという面もございます。彼は明らかに傑出した政治家の一人に数えられるべき人物です。

 このHPの「エリツィンの時代」冒頭に書かせていただいたごとく、「春に鴬鳴き、夏に蝉鳴くが如く」ともうします。やはり、彼は乱世が必要とした、風雲児的政治家だったのでしょう。


     ーーーこのページの主要参考文献ーーー



   ・『プーチン』 
    池田元博
    新潮新書

   ・『ロシア経済事情』
    小川和男 著
    岩波新書

   ・『世界の紛争地図』
    羽土 力 著
    日本経済新聞社編

   ・『ロシア同時代史権力のドラマ』
    木村明生 著
    朝日選書

   ・『ロシア史 3』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
    山川出版社

   ・『世界の歴史 16
    松本重治 著
    中公文庫

   ・『ロシアとどう付き合うか』
    加藤 寛 責任編集
    PHP研究所

    ・『ソ連経済の歴史的転換はなるか』
    S・ブラギンスキー+V・シュヴィドコー著
    講談社現代新書

   ・『告白』
    ボリス・エリツィン著 小笠原豊樹訳
    草思社



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