|
〜〜 瀕死の政権 〜〜
|
|
Российская |
|
Российская |
|
前半は改革派として光輝いていたエリツィンですが、後半戦になると自身の健康問題もあって急速に失速、保守化します。
これはロシアに置ける大概の改革派政治家の宿命でして、一個人に全ての権力が集中し、当然のことながら権限も全て集中することからあらゆるこまごました決済も自分が下さねばならないパターンが圧倒的なロシアにおいては、治世後半にかけて息切れから失速し、保守化し流れに身を任すようになるのは、良し悪しは別にして、ロマノフ朝からロシア史によく見られるケースです。最末期こそ乱れがありましたが、権力を握ってからほとんど死の寸前まで第一線で活動しつづけることのできたスターリンのような怪物政治家は、あくまで例外中の例外です。 |
|
|
|
安全保障会議の報道官は、この大統領令の起草にエリツィンが関与したか疑わしいとの声明を発表、レベジはグローズヌィに飛んでチェチェン側の最高指導者の一人マスハドフ参謀総長と会談をかさねます。 |
|
|
|
軍隊に入ったのは家庭の経済事情でしょうか。しかし、ソ連軍に入るにあたっては、いろいろ反対意見もあったでしょう。わが民族をここまで迫害した国家の軍に入り、忠誠を誓うとは何事かと。まだ物心つかない6才でチェチェンに帰ったマスハードフは追放当時の事情を覚えてはいなかったでしょうが、家族や親類からいろいろ話を聞いていたに違いありません。しかし、彼も彼なりに気持ちの整理をつけ、決心してソ連軍に入ったのでしょう。 そうして軍隊生活を送ってきた40才の彼に下った任務が、チェチェンと同じく数的には少数民族で構成されるバルト三国の独立運動の鎮圧でした。1859年の併合以来、 独立を求め帝政ロシアに対し度々反乱を起こしてきたチェチェンの出身であり、バルト三国の独立の気持ちは十二分に理解できたであろうマス ハドフ、にもかかわらずソ連軍の一員として、その独立運動を鎮圧する立場に立たたねばならなかった彼の胸中はいかなるものだったでしょうか。 改革派と言われ、自由主義、ひいては連邦内部の民族自決を認めるかもしれないと期待されたゴルバチョフも、結局のところ大国主義を振りかざし、少数民族で構成される共和国の独 立の機運を軍事力で押し潰そうとする旧来のソ連指導者と何も変わらないのを目の当たりにしたマスハドフ。ゴルバチョフにしろエリツィンにしろ、どれほどリベラルな発言を行おうと、結局のところ大ロシアの枠組から抜け出ることを断じて許さぬソ連の最高指導者たち。軍隊を、祖国を脅かす敵でなく、祖国を構成する民族の一般市民に対し差し向ける命令を下し、実際に自分に手を下させた祖国。これが自分の半生を捧げた組織の姿なのか…。 連邦の一員に留まる限り、今は鎮圧に回る側でも明日はわが身、自分たちにもいつなんどき迫害の嵐が吹き荒れるかわからないのは、1944年のチェチェン人のカザフスタン・シベリアへの追放で明らかであり、しかもこの迫害が起こったのはマスハドフの父母の時代です。マスハドフには彼らが語ったソ連の迫害の意味が初めてわかったのではないでしょうか。 以上のような経験が、彼にどのような影響をあたえたのか、2005年のロシア保安庁(ФСБ)の作戦でマスハドフが殺害されてしまった今となってはわかりません。 しかし、ここでロシア側の意見も述べておかないと不公平というものでしょう。個人的にザカフカース系の人(タガンローク出身)には一度しかあったことがないのですが、すぐにぶちきれやすい、非常に付き合いにくいタイプの人でした。スターリンってこういう人だったのかなあという印象を受けました。 また、独立したい意思は結構だが、こんな小国が経済的・軍事的にそもそも独立してやっていけるのか。チェチェンの場合は国内を石油のパイプラインが通って いますから、パイプラインのメンテナンス・通過手数料などを独立後の資金に当て込もうとしたのでしょうが、この石油パイプラインの管理をチェチェン一国で本当に技術的にやりとげられるのか。 歴史をひもとけば、大国の思惑もあり、第1次世界大戦後のオーストリア・ハンガリー帝国の崩壊でめでたく独立を達成した中東欧の小国が、一体どういう目にあったか。小国に分裂してしまったため一致した抵抗ができず結局ナ チスドイツやソ連などの大国に翻弄し尽くされた歴史を考えると、いくら独立の誇りが旺盛でも、悲しいかな小国ならば、身の程を弁え、寄らば大樹の陰でもやむを得ないと。 どうせ寄らば大樹の陰ならば、ペルシャとの戦争による強制編入だろうが腐れ縁だろうがなんだろうが、古い付き合いでお互い知己のロシア圏内に留まるのが一番ではないだろうか。他の大国も一時的には力を貸してくれるであろうが、いくら石油と絡むとはいえ、これほど遠くの国家の運命に本当に最後まで関心を払い続けてくれるのか。引きかえロシアはお隣さん、良きにつけ悪しきにつけ、地理的に一蓮托生の仲ですよ。とはいえ軍事技術開発や兵員維持など、人的資源・経済力・労苦・政治などの必要なことは大国が肩代わりするから我々に協力してくれ、というのがロシア側の意見でしょう。 ともかくマスハドフはソ連軍で大佐まで昇進しますが、1991年に退役したのちすぐにチェチェン共和国国防軍に入隊します。1993年にはチェチェン軍参謀総長に任命され、1994年の第一次チェチェン紛争で旧ソ連空軍少将のドゥダエフ・初代チェチェン共和国大統領とともに戦闘を指揮していました。 1996年4月にドゥダエフ大統領がロシア軍のロケット攻撃で死亡すると、チェチェン・イングーシ国立大学出でイデオロギー問題を担当していた副大統領のゼリムハン・ヤンダルビエフが第2代チェチェン共和国大統領となりましたから、マスハドフが軍事関係の最高実力者となっていたと思われます。 ともかくレベジは8月21日から22日にかけて同じ旧ソ連軍同士、マスハドフ参謀総長と会談を重ね、ロシア軍司令部も抑えて総攻撃を回避し双方が軍を引き、グローズヌィの秩序をロシア軍とチェチェン武装勢力双方の合同警部司令部が維持する協定を成立させることに成功します。協定は23日に発行し、グローズヌィは平穏を取り戻したと外電は伝えました。つづいてレベジは独立派とチェチェンの政治的地位について話合い、8月31日にはダゲスタンのハサビェルトでマスハドフとさらに会談を重ね、チェチェン独立問題を向う5年間棚上げにするとの合意に達し、共同政治声明を発表しました。これでチェチェンに一応平静が戻り、ロシア軍の戦闘も中断ということになりまし た。 しかしエリツィンはレベジの尽力に報いることなく、レベジはこれを機会に政界に力を伸ばそうと画策したため10月17日に安全保障会議議長を解任します。2002年4月8日、視察中のヘリコプター墜落事故でレベジは亡くなりました。 次に起こなわれたのはエリツィン当選に大きな役割を果たしたオリガルヒへの利益誘導です。1997年7月28日、軍人の未払い給与5兆5000億ルーブルを清算するとして、チュバイス主導でロシア最大の通信分野での持株会社、スビャジインベストの政府所収株の25%の公開入札が行われ、ポターニン前副首相のオクシム銀行グループと、ポターニンの勢力拡大を警戒したベレゾフスキーとグシンスキーが連合を組み、激しい競り合いの結果、ポターニンが落札しました。 しかし、入札後オクシム・グループが落札額の半分以上の10億ドルをアメリカの投資家ジョージ・ソロスから仰いでいたことが判明、通信分野を外国人に握られることを共産党も懸念し、ベレゾフスキーは傘下のロシア公共テレビ・独立新聞、グシンスキーは独立テレビ・セヴォードニャ紙などを使って大々的に異議を唱えます。 チュバイスらは当然これを無視、ついで政府保有株売却第二弾として「ノリリスク・ニッケリ」の株式の38%の公開入札を発表しました。チェルノムイルジン首相は、入札の実施条件が現行法に適合していないと入札延期を指示しますがチュバイスは入札を決行、ポターニン率いるオネクシム・グループの「スヴィッ ト」社が2億3618万エキューを提示して落札します。 ここで民営化の実務担当者のコフ副首相・国家資産管理委員会議長が辞任し、エリツィンが8月15日テレビインタビューで今回の出来事は一部の銀行が他の銀行よりもコフ全議長に近かったことから発生したスキャンダルであり、そのようなことがあってはならない。全てが誠実でオープンでなければならず法律を遵守し、いかなる違反もないようにしなければならないとコメントしました。 こうして選挙では一致していた新興財閥間での争いが続く中、年が変わって1998年3月23日、国営ロシア・テレビを通じてチェルノムイルジン首相を始め
全閣僚の更迭を発表、代わってキリエンコ燃料エネルギー相を首相代行に任命しました。当時キリエンコは35才、帝政ロシア・ソ連時代を通じて最年少の宰相の誕生でした。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|